修証義

修証義 · 2021/03/29
修証義の解説ブログは2年ぶりです。 修証義の解説のブログは、1つ書くのに丸一日取り組まないと書けないので、鑑定を半年以上も待ってくださっている人がいるのに、ブログのために時間を取ることができなくて、気づいたら2年も経っていました。 今回は第二章懺悔滅罪の四節目、最終節の解説です。...
修証義 · 2019/03/14
あけましておめでとうございますと年始のご挨拶をしたきり、ブログが滞っていました。 鑑定を1ヶ月、2カ月と待っていただいている人がいるのに、ブログなんか書いている場合じゃないという形で走ってきましたが、この春の佳い日に是非ブログを更新したいと思いました。 実は、我が家にも春に一つの嬉しい門出がありました。...
修証義 · 2018/12/26
そう言う訳ですから、自分のエゴが喜ぶからではなくて、仏祖の憐みの対象として自分はあるという立場にたって、自分の利得を願う気持ちを限界まで削っていこうとする誠実な心で、仏陀に懺悔しなさい。 このようにする時、仏陀にダイレクトに自分の意識を向けることで、仏陀のエネルギーが流れ込んできて、仏陀に懺悔する功徳の力が、私を拯いあげて、エゴを薄くしてくれます。 仏陀に懺悔するという功徳の力によって、礙という凝り固まった頑ななエゴの障害がなくなり、穢れが減って浄らかな状態が確定し、自分が懺悔する対象である仏陀の素晴らしさや正しさに対する確信が深まっていきます。 心の穢れが浄らかになり、仏陀や祖師方の素晴らしさ・正しさに確信が深まり、それが私と一つのものとして、現象化され体得されるようになると、自分と他人と周りの環境は、一緒に自然と良い方向に変化していきます。 その懺悔滅罪の功徳による利益は、普遍的に、全ての生命体と非生命体に恩恵をもたらします。
修証義 · 2018/08/22
今回から、修証義の各論の最初の章、懺悔滅罪に入っていきます。 人生で、次の生に良いものを持って転生したければ、悪いことを避け、善いことをたくさんして生きた方が良い訳ですが、まずは悪いことを辞めると言うことが大切になります。 だから、まず過去世や今生でした悪いことを懺悔することが、最初に必要だと言うことになります。...
修証義 · 2018/07/09
修証義解説 第8弾です。 今回は第1章総序の最後の部分です。 ここまで、邪見(間違った見解)とは何かについて道元は語ってきていますが、この部分は邪見の第3段階目について語っています。 邪見 ①因果・業報という原因があって結果があると言う因果を否定しているレベル ②善悪の報に三時ありを知らない・理解しない人たちのレベル ③今生の我身二つ無し、三つ無しを否定したり理解していないレベル 自分を2つ、3つに分けて、善くない自分をまるで自分ではないように考えると言うずるいトリックを使って、自分はそれを批判する正しい自分と言う形で、誤魔化しをするようなことをしても、その善くない自分がやった悪業も、きちんと自分に返ってくるから気をつけましょうねと言っているところです。 このレベルの邪見は、真面目に生きている人でも、よく陥りやすい罠のようです。 自己嫌悪が、恥ずかしさや後ろめたさをあっと言う間になくすテクニックで、その結果本当の反省ができなくなっていると言われると、はっとされられます。 どれだけ、そう言う間違いをして、悪いと思わずに悪いことをしているのかと言うことを思い知らされます。
修証義 · 2018/04/05
今生積んだ善業・悪業の報いが、いつ返ってくるのか? その因果応報までのタイムラグには、三時という三種類の返り方のパターンがあります。 一つ目は、今生、積んだ善業・悪業について、今、生きている私の身体で現世においてその報いを経験すると言う場合です。 二つ目は、最初の現世果報に対して、今回積んだ善業・悪業について、次の生で報いを受け取ると言う場合です。 三つ目は、今回積んだ善業・悪業の報いを、次生果報の後に受け取ると言うことで、次の生よりも先の生で受け取る場合です。 この善業・悪業の報いの受け取り方に3つのパターンがあると言うことを、三時と言います。 仏陀釈迦牟尼が説いた伝統的な仏教が壊れていない仏教的真理の道を学習し修行するためには、その最初から、この3つの善業・悪業の返り方があると言う道理を単に頭で理解するだけでなく、効能・効果を発揮できるところまで、自分の思考として使いこなせるようになっていなければいけません。 そうでなければ、多くのケースで道を誤って邪見―間違った見解に陥ってしまいます。 ただ間違った見解に陥るだけでなく、地獄・畜生・餓鬼という三悪道に転生して、長い期間苦しみを受け
修証義 · 2018/02/26
修証義解説は、半年ぶりになります。 この所、アンマについて書くことが多かったのですが、私が最初に、人生の指標とするものとして「これだ! 凄い!!」と思ったのは、仏教の真理でした。 無我・無常・苦という三つは、本当に、たがう部分のない真理だと言うことに感銘を受けて、仏教について知りたいと思って、本や講演などで勉強してきました。 この修証義抜粋において語られていることは、仏教かどうかはともかく、解脱・覚りを最終地点として因果の法則に制約された苦しみの世界から脱するのが目的で生きる人には、全員に一致する真理だと言うことになります。 そして、修証義抜粋では、それが美しい日本語で語られていると言うことで、日本人がそれを唱えて、自然にそこに語られていることが、自然に心身に沁み込んでいくと言う意味で貴重なものだと思っています。 解脱・覚りを最終段階として、人は因果の法則によって輪廻転生している。 そして、生きることは苦しみであり、そこからの解放は、解脱・覚りであると言うのは、インド宗教に共通して見られる基本理念です。 その基盤の上にある占星術が、インド占星術だと言う風に思っています。
修証義 · 2017/08/31
あらゆるものが転変していく、この宇宙の根本原則としての無常の中で、命ははかなく頼りにならない無常なものです。早朝、草に朝露がついて、キラキラ光ってきれいだけれど、ほんのわずかな風が吹けば、それはポロンと道に落ちてしまいますし、風が一切吹かなくても、陽が昇ってくると蒸発してなくなってしまいます。 死んだときは、もう自分の身体は自分のものではなくなっています。身体にとどまらない私についても自分のものではありません。覚りの世界では、無我なので自分の身体も、そうでない私も自分のものだと呼ぶことができないのですから、コントロールすることはできません。まして家族・親戚とか、社会的地位・お金が自分のものである筈がありません。 昼と夜の繰り返しと言う時の流れが止めることができないように、その時間の変化によって、自分の命が変化していくことも、少しの間も止めておくことはできません。 紅が差しているような血色の良い顔も、いつしか面影を失い、どこかに消えてしまって、いくら探そうとしても、痕跡すら見つけることができません。 じっくりと細かい変化を見るようにしないと、過ぎ去ってしまった時間
修証義 · 2017/08/24
人間に生まれることは難しく、たとえ人間の身体を得たとしても、更に仏法に遇あえることは稀なことです。 今生、私は生まれた時から宿っている過去世でやってきた善い行い(功徳)の積み重ねによる縁によって、地獄・畜生・餓鬼の世界に転生せずに、生まれることが難しい人間の世界に生まれてきただけでなく、遇あうことの難しい仏法に出遭であうことができました。 輪廻転生の中で善い生であり、最高に素晴らしい生にすることもできるのだからするべきです。 だから、その最も善い生に生まれたこの身を、朝露のように儚い命を無常の風が吹いて落ちて(死んで)しまうまで、のほほんと朝露でいるのは楽しいよねとキラキラ光って無駄に過ごしてはいけません。
修証義 · 2017/08/15
生と死の明確な理解が、仏教徒として生き、覚りを目指して進歩していく過程において、最も大事な条件であり、その条件の原因です。 輪廻転生をし続けるなかで、仏法僧との出会いがあり、自分の中にそれを内在させるならば、輪廻転生の苦しみからは本質的に解放されています。 ただ、生死(輪廻転生)が涅槃(ニルヴァーナ)だと心得て、輪廻転生を嫌ったり、涅槃を要求したりするものではありません。 輪廻転生を厭うとか、涅槃を欣うとか、そういう心の働きが止まった時に初めて、輪廻転生から解放されることになります。 輪廻転生の意味とか、涅槃の意味などについては、難解な教えなので、究め尽くしていかなければなりません。

さらに表示する