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修証義解説 第6弾 第1章 総序 第4節 心と行為の〈縁起〉と覚りの縁

 

(いま)()因果(いんが)()らず業報(ごっぽう)(あき)らめず、三世(さんぜ)()らず、善悪(ぜんあく)(わき)まえざる邪見(じゃけん)党侶(ともがら)には(ぐん)すべからず、大凡(おおよそ)因果(いんが)道理(どうり)歴然(れきねん)として(わたくし)なし、(ぞう)(あく)(もの)()(しゅ)(ぜん)(もの)(のぼ)る、毫釐(ごうり)(たが)わざるなり、()因果(いんが)(ぼう)じて(むな)しからんが(ごと)きは、諸仏(しょぶつ)出世(しゅっせ)あるべからず、祖師(そし)西来(せいらい)あるべからず。

 

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(いま)()因果(いんが)()らず業報(ごっぽう)(あき)らめず、三世(さんぜ)()らず、善悪(ぜんあく)(わき)まえざる邪見(じゃけん)党侶(ともがら)には(ぐん)すべからず

 

 

因果を知らず言うのは、普通の世俗的な人たちが考える、生きている時幸せだったら良いじゃんと言う生き方のことです。

 

仏教的には、原因なくして結果なし、結果があるには、必ず原因がある筈と考えます。

 

そして、今生の悪業も、今生の善業も、すべて原因としてある以上、どこかで結果を生むはずと考えますが、それを因果(原因と結果、その関係性)と言います。

 

ですから、今生の幸福も、今生の不幸も、どこかで原因を作ったからこそ、今、起こっていると考えます。

 

業報というのは、そう言う善業や悪業には、必ず報いがあると言うことで、因果と似ている言葉ですが、因果というのは、サイエンティフィックなものの見方で、原因と結果のことを言っているのに対して、業報という言葉には、倫理観とか、価値感と言う道徳的な要素が含まれています。

 

三世と言うのは、現在・過去・未来の3つの世のことで、前世(過去世)・今世(現在世)・来世(未来世)のことです。

 

今回の人生で起こることは、今回の人生で行ったことの結果であるとは限らなくて、過去世で行ったことの結果である場合もあります。

今回の人生で行ったことは、今回の人生でその結果が返ってくるとは限らなくて、未来世において返ってくる可能性もあります。

つまり、三世という考え方を抜いたら、因果は成立しないと言うことになるので、三世も知らないといけない訳です。

 

因果応報と言っても、「ずっと悪いことをやっていて、最後まで幸せそうな人がいるじゃない?」と言う反論をする人がいるけれど、その答えは、因果と言うのは、三世があると言うことを前提にして、始めて成立することだと言うのが、その根底にあります。

 

つまり、今生、幸せなままで終わったとしても、悪いことをしていた人は、未来世で、その報いを受けなければならないから不公平はないと言うことです。

 

そして、悪業を辞めて、善業を積んだ方が良いとわかっても、何が善で、何が悪であるのかがわからないと、どう生きたら良いのかがわからないので、善悪をわきまえないといけないと言うことです。

 

 

そして、邪見の党侶と言うのは、今お話をしてきた

 

①因果を知らず

 

②業報を明らめず

 

③三世を知らず

 

④善悪を弁えざる

 

と言う4つの条件の1つでも満たす人は、邪見を持って生きている人たち―邪見の党侶と言うことになります。

 

①と③は、因果を知らないと言うことは、三世を知らないと言うことだし、三世を知らないがゆえに、因果を知らずになってしまうと言うことですが、これは、ニュートラルなサイエンティフィックなものの見方で語っているので、知らずと言う言い方で表されているのに対して、②と④は、倫理観・価値感が入っていて、それなしでは語れないから、明らめずと弁えざると言う言い方をしています。

 

そして、因果に対して、業報、三世に対して、善悪と言う形で、理論構造が厳密に構成されています。

 

因がもたらす幸福と不幸があって、その因果と三世の中で実現される因果という法則の中で、私たちは幸福になったり、苦しんだりしているのです。

 

 

と言うのは、原因を作る心の固定されたパターン、習慣のしがらみのことです。その業が原因を作って、その原因が結果をもたらすので、結果による苦しみと喜びの報いがもたらされると言うことです。

 

だから、業報という言葉の中には、どう言う生き方をしたら幸せになって、どう言う生き方をしたら不幸になるのかと言うことを知らないといけないよと言う道徳的な部分が入っていると言うことになります。

 

どう言う生き方をしたら、どう言う不幸が訪れて、どう言う生き方をしたら、どう言う幸福が待っていてと言うことを理解することが、業報を明らめると言うことになります。

 

 

そして、と言うのは、三世を通じて、自分に幸福をもたらすもののことで、と言うのは、三世を通じて、自分に不幸をもたらすものと言うことになります。

 

ここには、因果の否定、業報の否定、三世の否定、善悪の否定のどれか一つでもあれば、それは邪見になると言う道元の思いが込められています。

 

 

道元は、日本にはまともな仏法がないと思って、宋まで留学して帰ってきた訳なので、道元の生きた頃は、信じれば救われるとか、念仏を唱えたら救われるとか、護摩を偉いお坊さんにやってもらえば救われるとか言う宗教も、周りには数多くありました。

 

自分がなしたことは、すべて自分に繋がるものに報いが返るのだから、因果・業報・三世・善悪の一つでも否定して、悪いことをしても、念仏さえ唱えれば救われるなんて思って、いい加減に生きていたら大変な事になると言う思いがあったのだと思います。

 

 

そして、①~④の一つでも当てはまる人たちの一員となってはいけませんと言っているのです。

 

とはいえ、ほとんどの人たちは、それに当てはまっているとも言える訳ですが、そう言う人たちと付き合ってはいけないと言っている訳ではなく、そう言う人たちの群れの一員として、行動と言動を共にしてはいけませんと言っているのです。

 

それは邪見だよと法が説けるならば、説いて教えてあげる、説けないならば、黙って過ごしなさいと言うことを勧めていると言うことになります。

 

 

 

大凡(おおよそ)因果(いんが)道理(どうり)歴然(れきねん)として(わたくし)なし

 

 

 

大凡と言うのは、そもそもが、ほとんどの事例が適応できると言うことで、因果の道理と言うのは、因果・業報・三世、そこから決まってくる善悪のことです。

 

三世の中で、因果が成立しているので、善悪と言うのは、正しく決まっていることになるので、ほとんどの因果の道理と言うのは、因果、業報、三世、善悪という真理から生まれてくる倫理体系のことになります。

 

 

真理と言うのは、宇宙の法則のことで、偉い人や神様が決めた訳ではなく、そのように宇宙は成立していると言う法則のことです。

 

ほとんどの因果の道理は、真理なので、いくらでも検証例があるくらいはっきりしています。

 

私なしと言う言葉は、物理法則のように客観的で、普遍的で、抽象的で、矛盾のない理論体系なので、恣意的に決めたり、一部を書き換えたりと言うことが不可能になっていると言うことです。

 

神様が天国に行くのか、地獄に行くのかを決める、「この人は、私のことを良く信じているから、これはなしにしてあげよう」とか言うことはないと言うのが私なし(神様の私情がない)で、三世において、因果が成立していて、その因と果と言うのは、苦しみと喜びの業の報いをもたらすから、そこで善悪が決まって、善を為せば三世の中で幸せになり、悪を為せば、三世の中で不幸になると言うことを言っています。

 

私なしと言う言葉には、道元が、人格神はいらない人だったと言うことを表しています。

 

 

道元にとって、必要だったのは、この宇宙の成立している根本的な真理、イコール、因果、三世、それを土台とした生き方の正しい法則である仏教的倫理だったと言うことでしょう。

 

だからこそ、仏陀から11で、連綿と正しい教えを伝授された流れに自分が繋がることが必要で、そのために宋まで留学して、師匠に出会い、その教えのすべてを受け取って帰ってくることが必要だったということなのでしょう。

 

 

 

(ぞう)(あく)(もの)()(しゅ)(ぜん)(もの)(のぼ)る、毫釐(ごうり)(たが)わざるなり

 

 

 

悪いことをした者は、苦しみの世界に転落し、低い世界に転生するし、善を実践するものは、人間の世界よりも高い世界に転生します。

 

それは、髪の毛一本のずれすら生じずに、その法則は厳密に成立します。

 

超厳密な科学的合理性を元に、善悪と言うのは決まっているので、その法則からは逃れることができません。

 

悪と言うのは、堕ちる原因となる身口意(身体で行うこと、口で言うこと、心で思うこと)の行為のことで、善と言うのは、陞(のぼ)る原因となる身口意の行為のことになります。

 

人格神はいなくて、その裁量がないから、髪の毛一本ほどのずれもなく正しい結果が出るのです。

 

 

 

()因果(いんが)(ぼう)じて(むな)しからんが(ごと)きは、諸仏(しょぶつ)出世(しゅっせ)あるべからず、祖師(そし)西来(せいらい)あるべからず。

 

 

因果の法則がなければ、因果の法則の仏典もない筈ですが、因果の法則を説いた仏典がある以上、因果の法則はあるんだと言う論証形式になっています。

 

因果の法則が、もし真理でなければ、因果を説いた仏典もない筈というのを、否定型で使っています。

 

経典が真実なのは、当たり前で、経典が絶対であるという仏教独自の前提を用いた論証になっています。

 

諸仏と言うのは、仏陀を含めた覚りを開いた過去七仏のことなので、諸仏の出世あるべからずと言うのは、仏陀を含む過去七仏が人間の世界に生まれてくることはなかったと言うことです。

 

諸仏が、この世界に生まれてきて、仏陀となって法を説き始めると言うことが、出世と言うことです。

 

過去七仏を含めた仏陀が、世に出て法を説いて、その経典が残っている以上、その経典が説いている真理である因果法則と言うのはあるので、もし因果の法則がなければ、そう言う仏陀の登場もなく、仏陀が説いた教えの経典が存在することもないと言う形で、因果の法則はあるんだと言っているのです。

 

祖師と言うのは、禅宗の流れの最初の師である達磨大師のことで、祖師の西来あるべからずと言うのは、達磨大師が中国の西のインドからやってくることはなかったと言うことです。

 

インドに仏陀釈迦牟尼が、人間として登場して、仏陀として覚りを開いて教えを広め、そこから禅の覚りの部分を、かなり年代が経った後にインドから中国に来た達磨大師が伝えて、そこから禅の系譜が中国に定着して、その定着した禅の系譜に道元は出会ったと言うことですから、仏陀釈迦牟尼から一直線に繋がってくる道元までのプロセスが、諸仏の出世と祖師の西来という形で語られている訳です。

 

 

 

人間として今生きているこの世界で、どのようなことをしたら良い結果がでて、どのようなことをしたら悪い結果が出るかを知らず、自分の持っている業―生まれた原因を作る固定化されたパターン・習慣のしがらみを理解して、それがどう言う報いをもたらすかを知らず、過去世・現在世・未来世を通じて、何が善で自分に幸福をもたらし、何が悪で自分に不幸をもたらすのかを知らない間違った考えの人たちと群れの一員として、行動と言動を共にしてはいけません。

 

ほとんどの原因と結果の関係性は真理なので、いくらでも検証例を示すことができるほど明らかです。

 

そこには神様の裁量は入りようがありません。

 

悪いことをするものは、苦しみの多い低い世界に転生するし、善いことをするものは、人間よりも高い世界に転生します。

 

それは、髪の毛一本ほどの違いもなく、起こることです。

 

もし因果(原因と結果)の法則が真理でなければ、仏陀釈迦牟尼を含めた過去七仏がこの世界に生まれて、覚りを開き、法を説き始め、人々を救うこともなかったし、達磨大師がインドから中国に渡って、その法を伝えることもありませんでした。

 

つまり因果を説いた仏典もなかった筈ですが、因果の法則を説いた仏典がある以上は、因果の法則はある筈です。

 

 

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修証義解説は、半年ぶりになります。

 

 

この所、アンマについて書くことが多かったのですが、私が最初に、人生の指標とするものとして「これだ! 凄い!!」と思ったのは、仏教の真理でした。

 

無我・無常・苦という三つは、本当に、たがう部分のない真理だと言うことに感銘を受けて、仏教について知りたいと思って、本や講演などで勉強してきました。

 

 

この修証義抜粋において語られていることは、仏教かどうかはともかく、解脱・覚りを最終地点として因果の法則に制約された苦しみの世界から脱するのが目的で生きる人にとっては、全員に一致する真理だと言うことになります。

 

そして、修証義抜粋では、それが美しい日本語で書き下し文として語られていると言うことで、日本人がそれを唱えて、自然にそこに語られていることが、自然に心身に沁み込んでいくと言う意味で貴重なものだと思っています。

 

 

 

解脱・覚りを最終段階として、人は因果の法則によって輪廻転生している。

 

そして、生きることは苦しみであり、そこからの解放は、解脱・覚りであると言うのは、インド宗教に共通して見られる基本理念です。

 

 

 

その基盤の上にある占星術が、インド占星術だと思っています。

 

インド占星術と宇宙の真理、何が善で何が悪かと言うことを学べば、より幸福の得やすい、より苦しみの少ない人生を送っていけると信じています。

 

 

 

そして、親愛なるアンマの語ることは、仏教の真理とたがうところは全くなくて、真理の体現者として、今、アンマは、人間として生きていらっしゃる。

 

その存在に、今生きている私たちは直接触れることができる。

 

そのことの意味は計り知れないと思っています。

 

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ホームページの鑑定用資料のところに修証義と言うところがあって、そこからお唱え用の修証義抜粋のPDFがダウンロードできるようになっています。

 

4枚分の文章になっていますが、それを印刷して半分に折って、裏に糊をつけて貼り合わせると、簡単にお唱え本になるような形になっていますので、興味のある人は、一度印刷して唱えてみてください。

 

よくわからないけど、心が落ち着く感じがしますよ。