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修証義解説 第10弾 第2章 懺悔滅罪 第2節 仏の証明と浄心の共鳴

久しぶりの修証義解説です。前回は、真夏でしたが、もうすっかり冬になってしまいました。

 

今年後半は、鑑定依頼が多く、毎日それに追われて過ごした半年でした。

 

おかげ様で、半年前よりはインド占星術家としての生活が身に馴染んできた感覚があります。

 

自分の鑑定の形も整ってきて、鑑定のスタンスも、はっきりしてきましたので、インド占星術鑑定のところに、『私の鑑定の特徴とそのスタンス』と言うのを追加しましたので、興味のある方はご覧になってください。

 

 

今年1年ご縁のあったすべての人に感謝いたします。

 

皆様方にとって、良い年が訪れますようにお祈り申し上げます。

 

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(しか)あれば誠心(じょうしん)(もっぱ)らにして前仏(ぜんぶつ)懺悔(さんげ)すべし、恁麽(いんも)するとき前仏(ぜんぶつ)懺悔(さんげ)功徳力(くどくりき)(われ)(すく)いて清浄(しょうじょう)ならしむ、(この)功徳(くどく)()無礙(むげ)(じょう)(しん)精進(しょうじん)生長(しょうちょう)せしむるなり、(じょう)(しん)一現(いちげん)するとき自佗(じた)(おな)じく(てん)ぜらるるなり、(その)利益(りやく)(あまね)(じょう)()(じょう)(こう)ぶらしむ。

 

 

 

(しか)あれば誠心(じょうしん)(もっぱ)らにして前仏(ぜんぶつ)懺悔(さんげ)すべしというのは、だから、誠実な心だけを持って、仏陀に懺悔しなさいということですが、誠心、誠の心と言うのは、仏祖憐れみの余りと言う、仏祖の憐れみの対象として、私はあるという立場に立つことを言います。

 

自分が、憐みの対象であるということは、悪の報を感得せざるには非ずで、悪業の報いを引き受けなくてはならないことが、自分の中にはたくさんあって、自分一人では手に負えませんので、助けていただくしかありませんと言う他力のスタンスに立つということです。

 

前回解説したところの、懺悔するが如きは重きを転じて軽受せしむ、又滅罪清浄ならしむるなりと言う一説を聞いた時に、うまい話を聞いたと、自分のエゴのために使おうとほくそ笑む人もいたりするので、誠実な心だけにして、仏教を使って自分の利得を願う気持ちをどこまで少なくしていけるかが大切だと言っているのです。

 

仏陀に対して懺悔する時に、自分のエゴが喜ぶような良い話だから懺悔しようというのは辞めておけ!というのが、誠心を専らにしてという言葉で語られているのです。

 

 

 

人間と言うのは、自分の利得を願う気持ちが生じるのは、避けることができませんが、それを限界まで削っていこうと努力すべきだということが、専らにしてという言葉に込められています。

 

カトリックでは、神父さんに対して懺悔しますが、それは、神父と言うのが、イエスがペテロに天国の鍵を委任した、その委任された権利の継承者と言うポジションだからです。

 

仏教では、懺悔する対象は、前仏―仏陀だけということになります。

 

 

 

普通の人は、激しい感情を伴った想念があって、それを私だと思っていたり、そう言う激しい感情を伴った想念がない人でも、微細な心の想念がある訳ですが、怒りだけでなく、悲しみの中にも、怒りと同様に破壊的・否定的なエネルギーがあるということが理解できるようになっていく段階の中で、初めて、自分の中に、誠心(誠実な心)の比率がどれくらいで、自分の都合の良さを求める卑しい心がどれくらいでと言うのをきちんと観察できるようになってきます。

 

そうなって初めて、私の定義は、既に誠心側にあるけど、邪見や謬見が消えている訳ではないので、それをできるだけ誠実な心だけにしていこうとする良心に私の立ち位置を定められることになります。

 

そこで初めて、誠心を専らにしてという努力が可能になっていきます。

 

 

 

恁麽(いんも)するとき前仏(ぜんぶつ)懺悔(さんげ)功徳力(くどくりき)(われ)(すく)いて清浄(しょうじょう)ならしむ

 

ここでは、前仏懺悔が、功徳になるということが語られています。

 

誠心を専らにして、前仏に懺悔する時、仏陀にダイレクトに自分の意識を向けることによって、仏陀のエネルギーが流れ込んできて、懺悔する功徳の力が、私を拯い(救い)包み込んで、第二・第三の矢(修証義解説第9弾で解説)を減少させてくれるので、悪いカルマを積む量が減って、清らかな状態に向かうことができるようになります。

 

その仏陀に向ける意識の総合的な強さは、【意識の強さ×意識の正しさ×時間】で示されるので、混ざりものが多くて正しさが少なくても、強さと時間を頑張れば総量は増えることになります。

 

ただ、その間違っている度合いで、正しくない世界からも色々なものが流れ込んでくるので、それによって苦しんだりということが出てくることにもなります。

 

バクティー・ヨーガ的に考えれば、神に対する熱烈な愛情を24時間向け続ければ、神の世界の恩寵と言う大海の中に浮かんでいるように生きられるということにもなってきます。

 

ここで前仏懺悔と功徳力が対応しているということは、【意識の強さ×意識の正しさ×集中している時間】で決まるということですが、伝統的なインド宗教のバクティー・ヨーガ(愛と信仰のヨーガ)的なスタンスから言えば、神の愛の大海は、私たちの周りに既にあるということにもなります。

 

周りに膨大な神の愛の大海の海水が、満ち満ちているのに、空っぽの瓶を大海に放り込んでも、蓋がきっちり閉まっていて、瓶の中には海水が入ってこないということもある訳です。

 

神の愛が、感じられないのは、自分が蓋をきっちりと閉じた瓶だからということになります。

 

そして、その堅く閉じた蓋こそが、私が私だと思っているエゴの強さと言うことになりますし、そのきっちりと蓋を閉じた瓶を私だと思っているということになります。

 

それは、他の誰でもなく私であるというエゴの意識こそが、神の愛と言う膨大な海水を排除して、空っぽの瓶の中の空間を作っている訳です。

 

そう言うもったいない変なことを頑張ってやっているのは何故かというと、私は素晴らしいからなくす訳にはいかないと思っているからということになります。

 

前仏懺悔の功徳と言うのが、何故生じるのかというと、懺悔が成立している時に、私は素晴らしくもなんともなくて、しかも、それを何とか良くする方向に進んでいく力も、決定的に不足していてと言う形で、蓋が緩むからだそうです。

 

 

 

私のチャートは、立派な私でなければならないという形のエゴが強いチャートで、蓋を緩めるというのが、苦手分野なのですが、このところアンマのところに関わっているというのは、そこにいけば、蓋を緩めていたり、蓋を開けていたりする人たちがいっぱいいるから、自分の蓋も思わず緩んじゃうこともあるから、そう言う場に身を置いているところがあるのではないかと思いました。

 

 

 

我を拯いて清浄ならしむというのは、他力的な表現で、拯い(救い・掬い)あげる、拯いとるという意味なので、懺悔滅罪の中で、①重きを転じて軽重せしむ(修証義解説第9弾で解説)のメカニズムと②我を拯いて清浄ならしむの2つのメカニズムが働くということになります。

 

この①②の両方が、正しく機能するような懺悔とは何かと言うことを考えていくと、正しい懺悔の基本的な方向性が定まってきます。

 

この2つの方向性は、①はヴィパッサナー(観察瞑想)と②バクティー・ヨーガ(愛と信仰のヨーガ)の両方を励むということになるので、結構、総合的な修行になります。

 

どんな修行でも、それを突き詰めていくプロセスでは、色々な修行の要素がないと、その先にはいけないということになるので、懺悔の修行であっても、ヴィパッサナー的には、第二・第三の矢(修証義解説第9弾で解説)を自分が撃っているということが見えるところまで心の観察を進めていかないといけませんし、そこで初めて邪見が苦しみを生んでいるということが、本当の意味で解るようになるということなのでしょう。

 

 

 

ここで、前仏懺悔の功徳と言う形で、がついているところがこの一節の特徴的なところです。つまり、がつくことで、エネルギー論的で他力的な表現になっているのです。

 

(すく)いてというところで、他の存在からの作用を語っており、清浄ならしむというところでは、エネルギー的な側面と情報的な側面の両方がある形になります。

 

道元は、他力本願の仏教の宗派と対立して迫害されている立場だったので、他力的なものに対しては禁欲的でしたが、この一節は、珍しく非常にバクティー・ヨーガ的、クンダリニー・ヨーガ的なところです。

 

 

 

それは、懺悔と言うことを語っていくためには、バクティー・ヨーガ的な部分を書かない訳にはいかなかったし、清浄ならしむの清浄と言う言葉にも、エネルギー論的な部分と間違った情報が消えていけば良いという情報論的な部分が同時に含まれているからということになります。

 

清浄ならしむというのは、エゴが薄くなっていくということで、この部分が、スピリチュアルとインド宗教を分ける決定的な差になります。

 

 

 

スピリチュアル本の中では、私それ自体は穢れだとは思っておらず、私の穢れを除くと、純粋で透明な光輝く素晴らしい私だけが残るという表現がよく見られます。

 

粗雑で邪悪な穢れが、純粋なエゴの穢れにまとわりついているから、それを落としていけば、穢れの総量は減っていきますが、そう言う風に減らしていくと、純粋なエゴは頑張った分だけ、どんどん逆に強くなっていって、ダイヤモンドの中に閉じ込められた純粋で強く拘束されたエゴができあがってしまいます。

 

ダイヤモンドだから、透明で光り輝いていて壊せないほど強靭でという特徴を兼ね備えているので、それがなぜ悪いんですか?と言われると答えるのが大変難しいけれども、きれいではあってもエゴなので、強固過ぎて壊すことが大変という意味では、インド宗教的には大変問題がある状態だということになります。

 

 

 

バクティー・ヨーガの修行が早く進むというのは、エゴを薄くするのではなくて、神を愛する私だけを残すから早いのだそうです。

 

バクティー・ヨーガが、最終的に解脱・覚りに至る修行になっているのは、愛する神が、純粋ですさまじい輝きを持った神ではなく、無我の領域を本質としている存在だから、この一点に支えられて、スピリチュアルの思想とは一線を画しているということになります。

 

 

 

(この)功徳(くどく)()無礙(むげ)(じょう)(しん)精進(しょうじん)生長(しょうちょう)せしむるなり

 

前仏懺悔の功徳の力によって、礙という凝り固まった頑なな意識の障害のない浄らかな世界に自分を同調させていく努力をしっかりとすることができるようになります。

 

礙というのは、凝り固まった障害のことで、硬直した意識状態で、これだけは捨てられないとか、これだけは許せないとか、これは絶対に正しいとか言う頑なな意識のこだわりのことです。

 

懺悔と言うのは、そう言う頑なな意識を明け渡す理想的な他者として、仏陀及び祖師方を想定して、凝り固まった私を薄くさせてくださいとお願いする作業だということになります。

 

懺悔滅罪の修行は、お願いしたい私もいるし、したくない私もいて葛藤する中で、スタートする訳ですが、修行が進むにつれて段々と凝り固まった礙が弱まってくるから、段々と懺悔をさせていただけることに対して、感謝の念を持てる私が伸びやかに息づいてくるということになります。

 

 

 

無礙の礙というのは、それこそが私を私たらしめている一番大事なものと言う風になっているために、礙という強固な塊として存続している訳です。

 

でも、その強固な塊を存続させるために、凄く苦しい思いをずっとしてきているということになります。

 

礙の意識に、一体化している間は、苦しいからと言って、それを捨てるのは正しくないから頑張らなくちゃいけないと思っています。

 

でも、この礙が、弱まったり、薄まったりすると、驚くほど苦しみが減るという体験を繰り返すことによって、もしかして、一番大事だと思って、一番なくしちゃいけないと思って握りしめているものを手放すのが、一番幸せへの近道?と気づき始めると、懺悔の修行ができることの喜びや感謝の気持ちが生まれてきます。

 

私は、間違っていないと思いたいというのが、エゴの根本的な特性ですが、そこまでいくと、懺悔の修行も安定してくることになります。

 

 

 

仏陀と言う他力を頼らず、自分の間違ったところを自分で何とかしようとすると、間違っている自分とその間違っている自分を治している正しい自分と言うものを作らないことには手が付けられないので、それこそ我身二つ無し、三つ無しに反して、ブラック私とホワイト私に分けて、ホワイト私がブラック私を叩きのめしているという罠に嵌まりがちです。

 

そのために、懺悔する対象として仏陀が必要になってくるのです。

 

浄信精進の浄というのは、礙が薄くなって、礙による穢れが減っている状態のことで、信は、その穢れが減った状態で見ると、自分が懺悔する対象である、仏陀の素晴らしさ、正しさに根拠がある確信が深まることを言っています。

 

それは、根拠を問わない盲信ではなく、浄らかになった自分の意識によって、見通せるようになった目から見て、正しく素晴らしいと思える智慧のある根拠のある信になります。

 

つまり、無礙の浄信精進を生長せしむるなりと言うのは、凝り固まったエゴの塊が緩んでくると、自分の懺悔する対象である、仏陀の素晴らしさや正しさに根拠がある確信が深まってくるということです。

 

 

 

(じょう)(しん)一現(いちげん)するとき自佗(じた)(おな)じく(てん)ぜらるるなり

 

浄信と私が一つのものとして、現象化して体得するとき、自分と他人と周りの環境が、良い方向に変化していきます。

 

自と佗がセットになっているということは、自と佗の区別が、本質的にはないということがわかってくるので、それは、一緒に良くなっていくしかないことも解ってくるし、その解ってくることによって、両方ともが良い変化をもたらしていきます。

 

心の穢れが強い時には、自佗を別のものとして、佗を自分を邪魔する環境や周りの人々と思っていたのが、実は、自分の内側の礙によって、自分で自分を邪魔していたことに気づくことによって、その障害がきれいに消えて、動けなかった現象が自然に動いていくことになるのが、転ぜらるるなりです。

 

それは、高い所から石が転げ落ちるように自然なことなのに、それを強力な礙と言うこだわりの接着剤で、自分が貼り付けていたから転げ落ちなかっただけで、転ぜらるるなりというのは、転がるように落ちていくような自然な変化として起こってくるということを意味しています。

 

こだわりの強さが緩んでくると、その接着剤が軟らかくなって、何かのきっかけで、ポロンと石()が転がり落ちることになります。

 

 

 

(その)利益(りやく)(あまね)(じょう)()(じょう)(こう)ぶらしむ。

 

情と言うのは、有情のことで、生命体全般のことを言います。

 

非情と言うのは、非有情のことで、非生命体のことを言います。

 

つまり、懺悔滅罪の功徳は、あまねく、全ての生命体と非生命体に恩恵がありますということです。

 

 

 

仏教は、キリスト教と違って、魂があるから偉いという話ではなくて、魂もまた幻影として存在していると考え、無我を土台にしているので、非生命体と生命体に根本的な区別をつけません。

 

西洋的な、物質と精神の二元論もないし、物質と魂の二元論もないということになります。

 

物質は低次元で、精神は高次元で、精神よりももっと上に魂があってという話ではないのです。

 

すべては幻影で、幻影として高次元と言う言い方は不可能ではありませんが、それに実体があると思ったら、仏教的ではないということになります。

 

全てには実体があるというのが、実存主義で、リアリズムになり、全てはないと否定するのが、虚無主義で、ニヒリズムですが、存在論的には、仏教は、リアリズムも、ニヒリズムの両方とも真理ではないという立場で、中間の道を行くので、中道とも言われます。

 

同時に、苦行と快楽主義と言う二元論の中道と言う意味も持っています。

 

実体があるから、それを楽しむべしというのが、快楽主義で、すべては存在しないという幻影があるんだから、破壊すべきと考えて行うのが苦行なので、そのどちらも取らないというのも、仏教の特徴でもあります。

 

その根源にあるのは、実在とその否定と言う両極端で、その両極を往復しても、覚りも解脱もないということにお釈迦さまは気づかれたということになります。

 

実在論に対しては、すべては幻影であると言い、虚無主義に対しては、幻影は幻影として存在しており、幻影の存在には、驚くほど法則性が厳密に規定されているが故に、ないという一言で扱うような代物ではないというのが、仏教の考え方です。

 

 

 

仏教は、実在と言うものも、実在の否定と言うものも、どちらも苦しみの原因だと考えるので、苦しみと言うものがあるんだから、それを解決しなくちゃねと言う現実主義的なところがあります。

 

苦しみが幻影だとしても、苦しみの幻影で苦しんでいる以上は、解決しなくちゃいけないでしょう?

 

懺悔滅罪は、苦しみを解決する処方箋の一つで、基本的な基本処方の一つとして、懺悔滅罪があるということになります。

 

 

 

道元は、仏教の覚りについて、ここで触れていて、自分も幻影、他人も幻影で、自佗の区別はないと言っています。

 

自佗の区別もなく、懺悔滅罪の功徳は、生命体と非生命体の区別を超えても、恩恵を与えますということになります。

 

全ては幻影と言う話になったら、石ころも幻影、苦しみも幻影だったら、同じ幻影の領域で、どこに区別する理由があるの?と言う話になる訳で、だから、生命体と非生命体も区別してはいけませんと言うことになるのです。

 

 

 

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そう言う訳ですから、自分のエゴが喜ぶからではなくて、仏祖の憐みの対象として自分はあるという立場にたって、自分の利得を願う気持ちを限界まで削っていこうとする誠実な心で、仏陀に懺悔しなさい。

 

このようにする時、仏陀にダイレクトに自分の意識を向けることで、仏陀のエネルギーが流れ込んできて、仏陀に懺悔する功徳の力が、私を拯いあげて、エゴを薄くしてくれます。

 

仏陀に懺悔するという功徳の力によって、礙という凝り固まった頑ななエゴの障害がなくなり、穢れが減って浄らかな状態が確定し、自分が懺悔する対象である仏陀の素晴らしさや正しさに対する確信が深まっていきます。

 

心の穢れが浄らかになり、仏陀や祖師方の素晴らしさ・正しさに確信が深まり、それが私と一つのものとして、現象化され体得されるようになると、自分と他人と周りの環境は、一緒に自然と良い方向に変化していきます。

 

その懺悔滅罪の功徳による利益は、普遍的に、全ての生命体と非生命体に恩恵をもたらします。