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修証義解説 第8弾 第1章 総序 第6節 二度とない人生を間違った教えに染めるな

 

(まさ)()べし今生(こんじょう)我身(わがみ)(ふた)()し、()()し、(いたず)邪見(じゃけん)()ちて(むなし)悪業(あくごう)感得(かんとく)せん、(おし)からざらめや、(あく)(つく)りながら、(あく)(あら)ずと(おも)い、(あく)(ほう)あるべからずと(じゃ)思惟(しゆい)するに()りて(あく)(ほう)感得(かんとく)せざるには(あら)ず。

 

 

 

当に知るべし今生の我身二つ無し、三つ無しと言うのは、第4節で語られた造悪の者は堕ち修善のものは陞る、毫釐も忒わざるなりと言うことに対して、私のやったことは、善業も悪業も、私が引き受けるしかないと言っていることになります。

 

それを、否定したり、誤魔化したりと言うことはなく、私と言うラベルが幻影であるとしても、私というラベルの幻影の中で為したことは、私というラベルが引き受けるしかありません。

 

 

 

仏教の土台は、本質的には無我なのですが、我があると言う幻影の中で為したことは、その幻影がある内は、その幻影の私が受け取るしかないと言うのが、カルマの法則です。

 

それは、私は幻影なんだから、自分が何をやっても、返ってこないよねと言うことを考え始める人がいるので、そう言う人たちに釘を刺すために、道元は、今生の我身二つ無し、三つ無しと言う形で、我が身、我(エゴ)と言うことを書かなければならなかったのです。

 

 

 

これを、心理学的に解説するならば、統合失調症の人というのは、我が身を意図的に分割して、特定の自分だけを我が身と思うという、テクニカルなトリックを使っている状態ですが、そう言う極端なケースでなくても、人間は、自分を二つや三つに分けて、良い私だけを自分だと自分で考えることで、誤魔化しをしていると言うケースは多いです。

 

 

 

例えば、「悪気がなかったんだから、それを責めるのは、あなたの方が間違っている」と言っている人は、善意の私と、善意によって正当化した欲望を満たそうとする煩悩的な邪悪な私を分離して、煩悩的で邪悪で自己正当化するずるい私に色々なことをやらせておいて、その結果を楽しみながら、その私と分離された純粋な善意の私というのを取っておいて、自分について検討する時には、その自分だけを考えて、私は悪くないと言っている状態な訳です。

 

悪気がない純粋な善意の私と、その建前を使って、相手を傷つけてでも、自分の欲望を満たすことを巧妙にやる私と言うものを分離して、その結果を楽しみながら、それを非難されると、そうじゃない純粋な私を持ち出して、「私は悪くないのに、こんなに純粋な私を責めるの?」と言うのです。

 

ここに善意のある人間こそが、多くの悪業を積む可能性があると言う理由があります。

 

「地獄への道は、善意で舗装されている」と言う言葉があるのは、そのためです。

 

自分に善意があると思うだけで、善意のある自分がやっていることは、間違っている筈がないと言う形で、反省する力とか、謙虚さを失っていく訳です。

 

 

 

また、自己嫌悪に陥っている人は、嫌悪している私と嫌悪されている私に自分を分裂させていることになります。

 

やるべきことをやらなかった私、恥ずべきことを欲望のためにやってしまった私に対して、恥ずかしいとか、後ろめたいとか思う苦しみを、あっという間になくすテクニックが自己嫌悪なのです。

 

自分を分裂させて、自分に都合の良い方の自分を自分として登録して、その残りの自分を、自分の中の異質な自分として排除して、攻撃している状態が、自己嫌悪です。

 

その時には、嫌悪している自分は、情けない責められるべき自分とは無関係に、そう言うものを嫌悪する立場に立つ正しい私になっているのです。

 

その結果、自分が悪業を為した責任から逃れて、本当に反省することができなくなってしまいます。

 

つまり、今生の我身二つ無し、三つ無しと言うのを受け入れる覚悟があって、初めて反省ができるようになる訳です。

 

そんな形で、我が身を二つ、三つに分裂させて自分を正当化して悪業を積んではいけませんと戒めている訳です。

 

 

 

 

元々、統一された私が、ただ一つだけあると言うのが嘘で、私と呼べる色々な私がいて、その時その時で、強い発言権を持った私が、行動を決定していると言うことになります。

 

インド占星術をやっていると、それが実感としてわかってきます。

 

アセンダントの表す日常の私と月の表す内面の心の私と太陽の表す社会的意識の私は、常に働いていますが、恋愛の時には、金星の表す恋愛意識を含めた何を心地よいと思うかという意識も作用しています。

 

それぞれの私が、ダシャーやトランジットの表す状況に応じて、力関係を常に変動させながら、その瞬間に、決定権を持った意識が、行動したり喋ったりしていることになります。

 

ダシャーと言うものを理解すると、状況が、刻々と変化していくのも当たり前なので、すべてのものは流れていって無常だよねと感じられるようになってきますし、一つの変わらない私がある訳ではないよねと言う意味での無我は感じられるようになります。

 

でも、同時に、色々な私の総合体が私であるなら、そのどの私がやったことも、私が責任を負わなくてはいけないと言うことにもなってくるのです。

 

 

 

人が悩んだり、苦しんだり、人生がうまくいかないと言う原因のほとんどは、我が身を、自分の目先の都合に合わせて、分離・分割して、自分の思っている良いとこ取りをしているからだと言うこともできます。

 

うまくいかないと、良いところ取りの努力が足りないからだと思って、もっと極端に良いところ取りをしていくと言う形で努力するのですが、それは凄く偏っている自分の選んでいる良いところ取りで、総合的に見ると、ちっとも良いところ取りになっていないことも多く、その結果、より苦しみが増していくと言うことになります。

 

真面目に頑張る人の人生が幸せでないことが多いのは、こう言う仕組みで起きることだそうです。

 

仏法のような、何が幸福をもたらすものなのかを教えてくれるものに出会って学ぶことで、その苦しみへの連鎖は、少しずつ改善していくのではないかと感じています。

 

 

 

修証義では、一番最初に、生死を厭うも、涅槃を欣うも、私がある状態では、エゴが残っているんだよねと言うところからスタートしながら、造悪のものは堕ち、修善のものは陞る、毫釐も忒わざるなりと言う形で、自分の為したことは、きっちり自分に返ってきますと言っています。

 

この2つが、どのように共存するのかと言うことを、どれだけきちんと納得できるかが、仏教の理解では大切なポイントになります。

 

毫釐も忒わざるなりと言う厳密な法則の決定性と、解脱を求める私ですらも、エゴの存在を失いたくないと言う煩悩であると言うことの対比が、矛盾でなくて分かちがたい形で一つの真理として形成されていると言うことを、どのくらい納得できるかが大事になってきます。

 

我が身を二つ、三つに自己分裂させて、特定の自己だけを自己として自覚すると言うトリックに、人間は非常に陥りやすいと言うことがわかってくると、本質的な無我と毫釐も忒わずに因果応報を引き受けなくてはならない自分に繋がっているものとが共存するのが当たり前になってきます。

 

 

 

徒らに邪見に堕ちて虚しく悪業を感得せんと言うのは、そう言った自分の思い込みや、自分のエゴのテクニカルなトリックというのは、虚しく役にたたないもので、為したことは返ってくるから、悪業の返りを経験することになります。

 

自分のエゴの一部を分離して、あたかも自分と関係のないもののように思ったりするけど、それは自分が思っているのであって、厳密に自分に返ってきて、虚しく悪業を感得せんと言う結果になります。

 

毫釐も忒わざるなりが事実で、どんなに邪見で、そうじゃない風にしようとしても、それは、虚しい努力で、悪業を経験することになります。

 

次の惜しからざらめやと言うのは、惜しまないと言うことがある訳ないでしょうと言うことで、人間として生まれ仏法に出会えたこれ以上ない善い生を虚しい思い込みで通過しようとするなんて、もったいないよねと言うことです。

 

何をもったいないと言っているのかというと、第2節~第3節全体のことですが、特に、第2節の人身得ること難し、仏法値うこと稀なり~最勝の生なるべしまでと言うことになります。

 

こう言う素晴らしいチャンスを無駄にするのを惜しまないなんてことはあるでしょうか? いいえ、ありません。

 

つまり、出会えることの難しい仏法に出会えたこの非常に貴重な生としての人間としての生を大切にしなければいけませんと言うことになります。

 

 

 

ここで邪見(間違った考え・見解)と言うのは、次の①~③の3種類がありますが、第5説の善悪の報に三時あり~多く錯りて邪見に堕つるなりと言うところに繋がり、その多く錯りて邪見に堕つるなりと言うところは、第4節の今の世に因果を知らず業報を明らめずのところに掛かっています。

 

 

 

邪見

 

①因果・業報という原因があって結果があると言う因果を否定しているレベル

 

②善悪の報に三時ありを知らない・理解しない人たちのレベル

 

③今生の我身二つ無し、三つ無しを否定したり理解していないレベル

 

 

 

ここで、邪見の中心になっているのは、因果の否定です。自分の為した行為は、結果を生むと言うことを否定している存在が、邪見の党侶ですが、その中には、善悪の報に三時ありを言うのを知らない人たちもいます。

 

 

 

人間の生は貴重なので、大事に生きなくてはいけませんが、大事に生きると言うのが、全くできていない虚しい思い込みやトリックに嵌まって、悪業を引き受けることになると言う輪廻転生の受があります。

 

順現報受、順次生受、順後次受の3つの受とか、毫釐も忒わざるなりと言うのは、身口意で積んだカルマが、結果をもたらすと言う仏教の一番基本の部分を、色々な表現で言っているのです。

 

 

 

悪を造りながら悪に非ずと思い、悪の報あるべからずと邪思惟するに依りて悪の報を感得せざるには非ず言うのは、悪業を悪業だと理解する力が不十分で、悪いことをしながら、悪いことだとは思っていなかったり、自分のやっていることは悪いことだけど、神の帰依者だったら救って貰えるなどと思ったりして、自分の場合には返ってこないと言ううまい話があるなどと間違った考え方をすることによって、悪業の返りを引き受けることになってはいけませんと言っているのです。

 

 

 

悪を造りながら悪に非ずと思うと言うのは、生きるのに精一杯で、悪を為しても生きなくてはいけない動物の世界と言うレベルでもあります。

 

カリ・ユガの時代である現代では、人間でも動物的に生きるしかない人間も結構いる訳ですけれども、そう言う動物的な制約から逃れていても、悪の報あるべからずと邪思惟すると言う世界の扉は広く開かれています。

 

順次生受までしか理解せずに、来世天国に生まれて永遠の幸福が得られることを信じている人もそうです。

 

無常の法則は、天界も覆っている根本的な絶対的真理なので、天国に転生しても、天国のカルマが尽きた段階で、その天国で積んだ悪業に応じた苦しみの世界に転生することになります。

 

つまり、三時のすべてを覆い尽くさない限りは、解脱・覚り以外によっては救われないと言う結論には到達しない訳です。

 

そこに存在自体を越える以外に、最終的な解決はないと言う仏教を含めたインド宗教の特徴があります。

 

 

 

悪いことをした人は下の世界に堕ち、良いことをした人は上の世界に転生すると言うのは、髪の毛1本ほどの違いもなく起こってくることを知らなくてはいけません。

 

この生を生きている私を、悪い自分と良い自分などに自分を2つ、3つに分裂させて、自分の悪いカルマは悪い自分に全部押しつけて、良い私だけを自分だと考えることで誤魔化しをして良いところ取りをしようとしても、悪業の果報は避けることはできないので、虚しく無駄に間違った見解に陥って、悪いカルマを引き受けることになってはいけません。

 

人間として生まれ、仏法に出会えたこの生を、大事にしないのは大変もったいないことです。

 

悪業を悪業だと理解する力が不十分で、悪いことをしながら、悪いことだとは思っていなかったり、自分のやっていることは悪いことだけど、神の帰依者だったら救って貰えるなどと思ったりして、自分の場合には返ってこないと言ううまい話があると間違った考え方をすることによって、悪業の返りを引き受けることになってはいけません。

 

 

 

この節は、総序のまとめの章なので、総序の前の説にのあちこちに書かれていることを受けて書かれているために、解説をするのが大変難しかったです。

 

一度書こうとして挫折していましたが、ここをクリアしなければ、先に進めないので、無理やり言葉にしたと言う感じです。

 

 

 

次からは、各論の部、懺悔滅罪に入っていきます。

 

人生で、次の生に良いものをもって転生したければ、悪いことを避け、善いことをたくさんして生きた方が良いのですが、まずは悪いことを辞めると言うことが大事になります。

 

つまり、善いことを行い徳を積むよりも、過去世や今生でした悪いことを懺悔することによって清算すると言うことが、まず先だと言うことで、各論の最初に懺悔滅罪の話が来ることになります。

 

それは、悪業が低い世界に転生する原因になると言うこともありますが、悪業を減らし、清算することをせずに、善業を積み上げて巨大な徳を持つようになった場合には、天魔になってしまうからと言う理由もあるようです。

 

修証義って何?と言う人は、鑑定用資料のところで、修証義の抜粋をPDFでダウンロードできるようにしてありますので、ご覧になってみてください。