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修証義解説 第9弾 第2章 懺悔滅罪 第1節 仏に照らされ許される

 

今回から、修証義の各論の最初の章、懺悔滅罪に入っていきます。

 

人生で、次の生に良いものを持って転生したければ、悪いことを避け、善いことをたくさんして生きた方が良い訳ですが、まずは悪いことを辞めると言うことが大切になります。

 

だから、まず過去世や今生でした悪いことを懺悔することが、最初に必要だと言うことになります。

 

修証義 第二章 懺悔滅罪

 

仏祖(ぶっそ)(あわれ)みの(あま)広大(こうだい)()(もん)(ひら)()けり、()一切(いっさい)衆生(しゅじょう)証入(しょうにゅう)せしめんが(ため)なり、人天(にんでん)(たれ)()らざらん、()三時(さんじ)悪業報(あくごっぽう)(かなら)(かん)ずべしと(いえど)も、懺悔(さんげ)するが(ごと)きは(おも)きを(てん)じて軽受(きょうじゅ)せしむ、(また)滅罪(めつざい)清浄(しょうじょう)ならしむるなり。

 

 

 

仏祖というのは、仏陀とその後継者である祖師方のことです。祖師というのは、典型的には、達磨大師のことになりますが、仏陀から達磨大師、達磨大師から自分の師匠まで繋がった系譜も含めて、祖師という場合もあります。つまり、仏陀と自分が仏法に出会えるために脈々とその法を伝えてくれた方々ということになります。

 

 

 

憐れみというのは、慈悲喜捨という四無量心の2番目である悲、憐れみの心のことです。そして広大の慈門の慈門というのは、慈悲喜捨の慈の気持ちによって開かれている入り口のことです。慈悲喜捨というのは、慈→悲→喜→捨の順番に、難しい心の働きを示しているそうです。

 

慈と言うのは、その生命体が、幸福になって欲しいと言う気持ちで、幸福と言うのは、絶対の幸福のことだから、仏道修行によって善業が増大し、悪業が減少していき、心が成熟して幸福になっていくこと、そのために、なんとかしてあげたいと言う心の働きです。

 

これは、仏陀が覚った後に、涅槃に入らずに、80歳ぐらいまで活動を続けた理由です。自分は、完成しているから、自分自身には苦しみはない訳ですけど、まだ苦しんでいる周りの人たちも、幸福にしてあげたいと思ったから、布教する人生を歩んでくれた訳です。

 

悲、憐れみというのは、今、苦しんでいる生命体に対して、悲しみを覚えて、その生命体の苦しみについて悲しむ心のことです。そして、その悲しみが、悲しむ対象が、幸せになってもらいたいと言う形で、もう一回、慈に戻ってきます。

 

このように、慈悲は表裏一体で、循環していく心の働きです。

 

 

 

仏祖(ぶっそ)(あわれ)みの(あま)広大(こうだい)()(もん)(ひら)()けりと言うのは、私たちのところまで仏法を届けてくださった仏陀と祖師方は、苦しんでいる私たちを憐れんで、心が成熟して本当に幸福になって欲しいと思って、広い入り口を開いてくれていますと言うことです。

 

 

 

()一切(いっさい)衆生(しゅじょう)証入(しょうにゅう)せしめんが(ため)なりと言うのは、一切衆生というのは、すべての生命体のことで、証入というのは、正しい智恵によって、覚りの境地に入ることなので、これは、六道輪廻の生命体すべてを、仏法によって、覚りの境地に導いていくためですと言うことです。

 

証入の証というのは、修証義の証と言うのと一緒で、修行の達成を表す禅の表現の仕方です。ですから、修証義というのは、修行の修とその修行の結果として到達する境地の証に関する教義ということになります。覚るための手段とゴールについての教義が、修証義ということになります。そして、証のレベルに入ると言うことは、修の必要がなくなると言うことにもなります。

 

禅には、覚りを証すると言う言葉があって、証は証拠の証ですが、覚った場合には、その覚りを証明するような徴候がちゃんとあると言うことがあるので、禅問答の中で、覚ったならば、こう言う問いをすれば、こう言うような言葉が出てくると言う形があって、出てきた言葉を見て、証があるかどうかで覚ったかどうかを確認すると言うことがあるようです。

 

証というのは、頭で考えても入れない世界で、言葉自体に意味があると言うよりも、言葉がどう言う風に破綻しているかと言う破綻の仕方を手掛かりに、言葉を越えた世界を理解するために残された言葉ということらしいです。

 

覚りの世界が、実体としてあると思うのが、典型的な覚りの障害で、覚りの世界という素晴らしい世界があると言う風に、実体化して考えることが、覚れない根本的な理由になってきます。

 

証というのは、言葉では表現することのできない修行のゴールのことなので、証入というのは、修行のゴールに入る、覚ると言うことになります。

 

 

 

人天(にんでん)(たれ)()らざらんと言うのは、すべての生命体に、覚りへの道は開かれているけど、入るには、一旦、人間とか、天界に生まれて、そこから入っていくしかないと言う仕組みになっているためです。

 

地獄の世界は、苦しむのに忙しくて、教えを聞いたり、実践するゆとりはないし、動物の世界は、教えを聞いたり、教えを聞いて理解する能力がないし、阿修羅の世界は、功徳を積むことには熱心ですが、善悪の観念やエゴが強くて、委ねることができないので、教えを受け取らないところがある。

人間界と天界だけが、それを実践する功徳は、そこそこあって、縁さえあれば、それは可能であると言うことになっているので、すべての生命体に、その門は広く開かれているけど、直接入っていくためには、人間界とか、天界を起点にして入っていくしかないんだよと言うことになります。

 

他の生命体は、人間界か天界に転生するチャンスを待って、その後、入っていくしかないと言うことになります。

 

つまり、仏道修行の道の第一歩を歩むためには、人間界か天界に生まれないと始まらないと言うことになります。

 

 

 

()三時(さんじ)悪業報(あくごっぽう)(かなら)(かん)ずべしと(いえど)と言うのは、総序の最後の2(7弾・第8弾で解説)で書かれているように、私のどこかで犯した悪業の報いは、その犯した時点で返ったり、次の生で返ったり、その次の生の後で返ったりのどれかで必ず返ってきますけれども、にも関わらず、一見そうじゃないように見えることがあります。

 

懺悔(さんげ)するが(ごと)きは(おも)きを(てん)じて軽受(きょうじゅ)せしむと言うのは、重い悪業を、懺悔することによって、その返りを軽くすることができますと言っている訳です。これは、何か特別なことをやれば、罪が帳消しになるとか、減ると言うことではありません。

 

これは、一見、彼の三時の悪業報必ず感ずべしと言う真理が成立していないかのように見える言葉ですが、それは悪業の返りとして生じた苦しみが、それによって苦しむ苦しみの総量ではないと言うことで起こってくることです。

 

悪業の返りとして、第一の矢を感受するのは、仏教者であっても、悪業の報いとしては避けることができません。

 

でも、それをきっかけにして、自分自身で放つ第二の矢~第十の矢・・・・・は放たないことができる。

 

第二の矢というのは、自分に繋がっているものの悪業が返ってきていると言う理解をしないために、相手に対して、邪見による怒りとか、憎しみとか、恨みとかを持つことを言います。

 

その怒り・憎しみ・恨みは、相手を傷つけるだけでなく、自分自身を一番傷つけ、心を汚し、ひどい場合には身体の病気まで引き起こすと言うことにもなります。

 

 

 

自分の観念で、相手が間違っていると思っていても、相手の立場から見ると、相手が正しいと言う相対の真理が、お互い敵対しあって、傷つけ合うと言うことは、良く起こります。

 

その時に、自分の世界の外の世界があると言うことが認められるようになると、相手に対する怒りを緩和することができるようになります。

 

それが、怒っている自分を見つめるもう一人の自分の存在であり、真理の法の支えということになります。

 

それを育てていくことが、こころを成熟させていくと言うことなのかもしれません。

 

 

 

普通の人は、第二の矢以降を打つしかないから、第一の矢による苦しみと、自分で放った第二の矢以降の矢の苦しみを受けることになるので、第二の矢から派生した苦しみがまた発生して、それを余分に苦しまなければならなくなります。

 

それに対して、仏教者の場合は、懺悔することによって、第二の矢以降を打たない傾向になるので、重きを転じて軽受せしむと言うことが可能になるために、普通の人と同じように悪の報を感得しても、同じような大きさの苦しみを経験するのではなくて、第二の矢以降の矢による苦しみを減らすことができると言うことがここにはあります。

 

そして、第二の矢以降の矢を受けないようになるための非常に効果の高い修行として、懺悔の修行があると言うことになります。

 

理想的な形になれば、第一の矢の苦しみだけで止まるようになる。そこまでいかなくても、第二の矢で終わったり、第三の矢で止められたりするようになると言うことです。

 

 

 

(また)滅罪(めつざい)清浄(しょうじょう)ならしむるなりと言うのは、懺悔自体には、重きを転じて軽受せしむに留まらない効果がありますと言っている訳です。

 

悪の報は、私に繋がっているものがなした悪業の返りで起こる訳ですけれども、その生の私にはわからないことも多くて、理由もなく大きな不幸で苦しんだと言う形で違った正しくないことが起きていると感じがちです。

 

不当に奪われた自分の幸福を取り返すためには、多少のことは自分には許されるとか、自分は傷つけられて不当に苦しんだんだから、復讐する権利があって、その当然の権利を行使しただけと言う形で、復讐をすると言う形で、罪が滅するどころか、更に罪が増える方向に人間は行動しがちです。

 

懺悔の修行というのは、私の今の苦しみは、私が過去に為したことが原因で、当然の報いとして、それを受けとめていますと言う立場表明でもあるので、必然的に、また同じように苦しまないために、悪業を積まないように頑張りますと言う流れに自然に入っていく力になります。そのため、懺悔の行為自体が、自然と悪業を積まない生き方を行く様に誘っていくので、そう言う良い流れを作れば、滅罪清浄に流れて、罪がなくなり、浄らかになっていくと言うことになります。

 

思考というのは、止まらないものなので、流れていく方向を正しい方向に向けると言うのが、とても大切になります。

 

それが、懺悔の修行をすることによって、常に正しい方向へ流していくようにすることができると言うことになります。

 

懺悔の修行をずっとやっていると、滅罪するので、段々と感ずべし毎に、少しずつ清浄になっていきます。

 

それは、借金を働いて返しているようなもので、少しずつ借金は減っていくと言うことになります。

 

普通の人は、第二の矢以降を打つので、銀行の借金を返すのに、ヤミ金でお金を借りて返すようなもので、借金がどんどん増えていくと言うことになります。

 

 

 

三時の業報の理論を理解して、それに納得して、それに基づいて考えられるようになったら、自分のやったことが返ってきているだけなので、懺悔するのは当たり前になるし、手持ちの財産で借金を返すようになるから、返した分だけ借金は減っていくと言うことになります。

 

その借金が、どんどん減っていくプロセスというのが、罪の穢れがなくなっていく過程なので、段々清浄になっていきます。

 

仏教なので、無我が根本ですが、私の継続性という幻影の中にいる以上は、悪業報必ず感ずべしなので、過去の罪は、自分で引き受けなければならないと言うことになります。

 

 

 

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私たちのところまで仏法を届けてくださった仏陀と祖師方は、苦しんでいる私たちを憐れんで、心が成熟して本当に幸福になって欲しいと思って、広い入り口を開いてくれています。

 

それは、六道輪廻の生命体すべてを、仏法によって、修行の達成、覚りの境地に到達させるためです。

 

すべての生命体に、覚りへの道は開かれているけど、地獄界は、苦しむのに忙しくて、教えを聞いたり、実践するゆとりはないし、動物界は、教えを聞いたり、教えを聞いて理解する能力がないし、阿修羅界は、功徳を積むことには熱心ですが、善悪の観念やエゴが強くて委ねることができず、教えを受け取らないところがありますので、覚りへの道に入るには、一旦、人間とか、天界に生まれて、そこから直接入っていくしかありません。

 

どこかで犯した悪業の報いは、その犯した時点で返ったり、次の生で返ったり、その次の生の後で返ったりのどれかで必ず返ってきますけれども、にも関わらず、一見そうじゃないように見えることがあります。

 

重い悪業を、懺悔することによって、その悪業の返りを軽くすることができます。

 

それは、悪業の返りとして生じた苦しみは、その第一の矢を受けた苦しみだけではなく、普通の人の場合には、自分が放った第二の矢以降の矢による苦しみが足された苦しみだからです。

 

懺悔の修行というのは、私の今の苦しみは、私が過去に為したことが原因で、当然の報いとして、それを受けとめていますと言う立場表明でもあるので、必然的に、また同じように苦しまないために、悪業を積まないように頑張りますと言う流れに、自然に入っていく力になります。そのため、懺悔の行為自体が、自然と悪業を積まない生き方をするように誘っていくので、そう言う良い流れを作れば、滅罪清浄に流れて、罪がなくなり、浄らかになっていくと言うことになります。