あけましておめでとうございますと年始のご挨拶をしたきり、ブログが滞っていました。
鑑定を1ヶ月、2カ月と待っていただいている人がいるのに、ブログなんか書いている場合じゃないという形で走ってきましたが、この春の佳い日に是非ブログを更新したいと思いました。
実は、我が家にも春に一つの嬉しい門出がありました。
そのために吉日を選定し、良い門出になりますようにと願いました。
そして、この日のこの時間に新しいことを私も書きたいと思ったのです。
春には、新しい世界への船出が多いです。
その船出の日程にある程度範囲の余裕がある場合には、インド占星術には、吉日選定と言う技法があります。
活発に動きがあった方が良いような商売の開始の場合には、動きの星座とナクシャトラ、安定して長く続く方が良いことには、安定の星座とナクシャトラなどを選んで日時を決定するのです。
自分の人生では、そんなこと考えもせずに色々な日時を選んできましたが、選択の範囲で最善のタイミングを選んで生きてきたらどうなっていたのだろうと思いを馳せたりもします。
今年初めての修証義の解説です。
第二章懺悔滅罪の三節目の解説です。
私は過去世から、悪業をたくさん積み重ねてきて仏道を歩んでいくためにはたくさんの障害を持っていますが、私を憐れんで、仏道を進んでいけますように助けてくださいと願う部分です。
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其大旨は、願わくは我れ設い過去の悪業多く重なりて障道の因縁ありとも、仏道に因りて得道せりし諸仏諸祖我れを愍みて業累を解脱せしめ、学道障り無からしめ、其功徳法門普ねく無尽法界に充満弥綸せらん、哀みを我に分布すべし、仏祖の往昔は吾等なり、吾等が当来は仏祖ならん。
其大旨はというのは、懺悔滅罪の中核的な内容はざっくり言うとということです。
そして、『願わくは我れ設い過去の悪業多く重なりて障道の因縁ありとも~哀れみを我に分布すべし』までは、祈願文になっています。
願わくは我れ設い過去の悪業多く重なりて障道の因縁ありともと言うのは、自分は、過去世から数多く輪廻転生し続ける中で、多くの悪業を積み重ねてきて、仏道修行の障害になる原因と条件を溜め込んできていますと言うことです。
ここで大切なのは、仏道によりて覚りを得りしではないということです。
道元は、仏道修行が手段で、覚りが目的と言う発想を厳しく咎めていました。
それは、Aと言う手段によって、Bを得るという思考構造は、そこに目的を求めて手段を実行する主体があるということになるので、無我を根本的な真理とする仏道ではあり得ないことだからです。
無我を覚ろうと思って、私が頑張っている内は、覚る訳がない―覚りを獲得する私がいると思っているのが大間違いだということがあるので、仏道によって仏道を得るという言い方をしているのです。
確かに、覚りたいと思って努力を始める時には、覚っていない訳ですから、自分があるのは当たり前ですが、そのままでいたのでは、覚りまでたどり着けませんよということを言っているのです。
だから、仏道に因りて得道せりし―仏道によって仏道を獲得したと言う言い方をしています。
諸仏諸祖と言うのは、仏陀釈迦牟尼を含めた過去七仏とそれぞれに対応する祖師方のことです。
道元の流れで言うと、仏祖と言うのは、仏陀とその弟子たち、仏陀からストレートに達磨大師まで繋がる覚りの系譜のことになります。
我れを愍みて業累を解脱せしめ、学道障り無からしめと言うのは、仏道によって仏道を獲得した諸仏諸祖は、私に対して慈悲喜捨と言う四無量心の2番目の心である悲、つまり憐れみの心で、私の積み重なった悪業を解放させて、仏道を学ぶことの障害をなくして得道させてくれると言うことです。
ここで学道と言う言葉と得道と言う言葉が出てきますが、学道と言うのは、学仏道の人、仏道修行をまだ体得していなくて、修行をして学んでいる人のことで、得道と言うのは、得仏道した人、仏道修行を体得して、覚った人のことを言っています。
学道、学仏道によって何が得られるんですか?と言うと、今やっている修行が得られるんですよと言うことです。
覚りを得るというような私があるということを前提とした言葉の使い方に、何の疑問も持たない段階から、これって主体があるということを前提として言っているよねと言うことに気づけるようになっていくのが、覚りにちょっと近づいていくということになります。
何の疑問も持たずに、(私が)頑張って修行をするぞと言っているよりは、覚りに近いということになります。
ただ、頑張って修行をするという姿勢は長所でもあります。
努力ができないような人間には、仏道修行をできる訳がないということもまた真実です。
こういう話を聞いた時に、私が努力しなくても良いんですねと考えるような人は、まず自我をなくす努力をする前に、もっと真面目に努力する性格に、自分を作り直すというのを先にしなくてはいけない場合もあるでしょう。
つまり、自分を握りしめているのを辞めるのは、努力するのが当たり前と言うレベルに達した後の課題だということになります。
覚りの世界からすると、目的があって、手段があって、それを達成する主体があるという言い方自体が、へんてこりんな幻影をがっちりと握りしめているだけだということになるのです。
これは、覚りたいと思って、道元のところに集まってきている頑張る人たちに対して語っている言葉なので、そう言う頑張り方をしている限りは、絶対に覚れないんですよと道元は諭したのだと思います。
それを仏教では、筏(いかだ)の喩えと言います。
川で激流を渡るためには、筏がないと渡れないから、筏はとても大切になりますが、渡り終わっても、素晴らしい筏で激流を渡れたからと言って手放さないのではなくて、遠い野原を歩いていく時には、筏を置いていきなさいという話がありますが、私の努力と言うのも、筏の一つだということになります。
法界と言うのは、ダルマ・ダートゥのことで、純粋意識体の世界のことです。
無尽と言うのは、尽きることがないということなので、すべてに拡がっているということになります。
充満弥綸せらんと言うのは、充満弥綸しているでしょう、またはしている筈ですということになります。
ですから、無尽法界と言うのは、ダルマ・ダートゥすべてで、そのダルマ・ダートゥすべては、普くすべてに偏在しているという話になります。
純粋意識体と言うのは、いわゆる無色界、身体がない意識だけがあるもののことですが、無色界・色界の内の上位の神聖な世界だけと言う風に考えても良いでしょう。
法界に対応した言葉として、法身―法の身体という言葉があります。
仏陀には3つの身体の仏陀がいて、法身、報身、応身の仏陀を想定します。
法身と言うのが、無色界の仏陀で、報身が色界の仏陀、応身が欲界、物質の世界の仏陀と言うことになります。
仏陀釈迦牟尼は、応身の仏陀として2500年前に存在していた訳ですが、その本質は、報身の仏陀であり、法身の仏陀である訳です。
大乗仏教においては、応身の仏陀は、人間として登場して、人間の寿命が尽きた時に消滅して、この世界からいなくなりましたけど、報身の仏陀と法身の仏陀は、応身の仏陀が亡くなられた後も、なくなっているとは限らないし、存在し続けているか、または必要に応じて作れる可能性があるということになります。
そうすると、諸仏諸祖のところで出てきた過去七仏の仏陀以外の6人の仏陀がいた訳ですけれども、その仏陀が登場した宇宙は、もう無くなっていて、その無くなった宇宙と同時に、応身の過去六仏の応身の身体は、もう無くなっているけれども、色界、無色界と言うのは、宇宙が、創造・維持・破壊されても、それよりも上の世界だから残っていて、そこには過去七仏とか、そこに到達することのできた弟子たちの報身とか、法身が残っているということは当然想定できることになります。
だから、無尽法界と言った時点で、仏陀釈迦牟尼とその弟子のことではなくて、過去に登場した仏陀も、そこにはすべて残っている可能性があるということになるので、仏祖ではなくて、諸仏諸祖と複数形になっているのです。
無尽法界と言う法界全体について語っているので、そこには仏陀釈迦牟尼と達磨大師以外の生命体が、まだ身体を残していても、何の不思議もないから、道元は、諸仏諸祖と複数形で書かなければならなかった訳です。
懺悔滅罪の最初の部分では、仏祖憐れみの余りと、仏陀釈迦牟尼が登場をして、仏教経典を残して、そのサンガを残して、その中で伝えられた懺悔滅罪の修業について語りますねと言う風にスタートしているので、仏祖と単数表示なのですけれども、無尽法界とその本質のレベルにおいては、過去の6人の仏陀とその弟子たちの世界も、当然のように残っていて不思議はないため、諸仏諸祖と複数形で書かない訳にはいかなかったのです。
循環宇宙論の中では、1つの宇宙(あるいは世界)が誕生し消滅するまでの時間を劫(カルパ)と言ったりしますが、その宇宙は物質の宇宙なので、報身や法身のある世界は、それよりも上の世界で、宇宙の創造・維持・破壊を超えた世界なので、そこには諸仏諸祖が今もおられるに違いないというのがある訳です。
欲界 物質界 応身の仏陀が2500年前に存在していた
報界 色界 仏陀の本質はここにある 形状の世界で形と意識がある
法界 無色界 仏陀の法の身体がある 非形状の世界で意識だけがある
つまり、其功徳法門普ねく無尽法界に充満弥綸せらんと言うのは、諸仏諸祖の功徳と法門(教え・智慧)は、普く純粋意識体の世界すべてに拡がって充ち満ちている筈ですということです。
考え方によっては、法界が原因で、投影されている世界がこの世界とか、報界である―形ある世界の本質は、データであるという考え方もある訳です。
仏教経典の創成期のような経典によると、宇宙の創造の一番最初に、空の梵天界が作られて、その空の梵天界に、一つ上の光音天界の生命体が転生していくというのが、宇宙の創造の始まりで、魂の落下とともに、落下に相応しい世界が創造されて、順番に堕ちていく形でその世界が形成されてきたということです。
まずは欲界の中の天界が形成され、天界からも魂が落ちると人間界が形成されと言う形で、最終的に人間界から落ちていくと三悪道(地獄界・餓鬼界・畜生界)が形成されと言う形で世界ができていったことになります。
色界の一番下の梵天界は、宇宙と一緒に消滅したり、生成したりしていますけれども、梵天界の上の色界は、宇宙の創造・維持・破壊とは無関係にあるということです。
だから、無尽法界と言った時に、世界の創造・維持・破壊とは無関係の無色界と色界の内の上位の神聖な世界だけと言う風に考えることができます。
ですから、輪廻転生を超えるのが解脱と言っているけれども、どの世界を超えたら、輪廻転生を超えた言うのかと言うのかと言うのには、色々な考え方が成立します。
宇宙の創造・維持・破壊を超えた安定した世界へ転生する場合は、欲界からの輪廻転生は、もう超えた世界な訳ですが、色界もまた、色界での神々の寿命も長いけどあるという風に考えれば、色界の生命体であっても、有限の寿命だからまた転生するんだよねと考えることもできます。
形がない純粋意識体に転生したとしても、その意識がある以上は、存在自体が無常を根本としている以上、やっぱり無常だよねと考えることもできますが、その先は、意識で考えるしかないのだから、それは言葉で考えても無意味だという話にもなります。
道元は、言葉の天才でしたから、その無理筋な危うさの中で、法を説くという綱渡りをしていたということになります。
哀みを我に分布すべしのべしと言うのは、現代では命令形でしか使わなくなっていますが、この時代には可能であるという意味も持ちましたから、可能なので、よろしくお願いいたしますと一生懸命にお願いしているとも言えますし、可能なんだから、やれ!と解釈することもできます。
ここまでが、お願いと祈りの言葉です。
ここで、懺悔滅罪の冒頭で、仏祖憐みの余りとあるのに対して、諸仏諸祖我れを愍みてと表記し、今度は、哀みと言う形で、漢字が変わってきています。
ここで3つともわざと漢字を変えているということは、四無量心、慈悲喜捨の無量とある以上は、あらゆるあわれみを含んでいるという感覚をあらわすために、敢えて漢字を変えたのではないかなと感じます。
仏祖の往昔は吾等なり、吾等が当来は仏祖ならんのところは、決意表明になります。
仏祖の往昔はというのは、仏陀や祖師方になるまでの輪廻転生のプロセスと言うことになります。
そして、仏祖の往昔は吾等なり、吾等が当来は仏祖ならんと言うのは、仏陀も祖師方も、過去世においては、覚りに未だ到っていないけど、一生を賭けて修行を続ける生を何生も繰り返した中で、そこに到っている訳ですから、私たちも未来のどこかで、仏陀や祖師方と同じ境地に到達することは可能ですよね、だから頑張りますという決意表明になっています。
修証義と言うのは、道元が弟子たちに説いた法話集、九十五巻の正法眼蔵の抜粋なので、正法眼蔵の中では、仏道に挫折しそうになっている弟子たちに、仏祖も過去世においては、そう言う修行者としての生があって、それを乗り越えて仏祖と言う境地に達しているのだから、あなたたちも、諦めてはいけませんよと言う法話になっています。
ただ、修証義を自分で唱える時には、決意表明の部分だと思って唱えると良いそうです。
この後、漢文四節のところは、こことはまた別バージョンの祈りの言葉になっています。
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懺悔滅罪の中核的な内容はざっくり言うと、自分は、過去世から数多く輪廻転生し続ける中で、多くの悪業を積み重ねてきて、仏道修行の障害になる原因と条件を溜め込んできていますが、仏道によって仏道を獲得した仏陀釈迦牟尼を含めた過去七仏とそれぞれに対応する祖師方よ、私に対して憐れみの心で、私の積み重なった悪業を解放させて、仏道を学ぶことの障害をなくして得道させてくださるようお願いいたします。
過去七仏とその弟子たちの功徳と法門(教え・智慧)は、普く純粋意識体の世界を含めたすべての世界に拡がって充ち満ちている筈です。
ですから、全ての世界に行き渡っている慈悲の哀れみを私に与えてください。どうぞよろしくお願いいたします。
仏陀や祖師方も、過去世においては、覚りにまだ到っていないけど、一生を賭けて修行を続ける生を何生も繰り返した中で、そこに到っている訳ですから、私たちも未来のどこかで、仏陀や祖師方と同じ境地に到達することは可能な筈です。だから、頑張りますのでよろしくお願いいたします。