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修証義解説 第12弾 第2章 懺悔滅罪 第4節 決意が物性を現成(げんじょう)させる

修証義の解説ブログは2年ぶりです。

修証義の解説のブログは、1つ書くのに丸一日取り組まないと書けないので、鑑定を半年以上も待ってくださっている人がいるのに、ブログのために時間を取ることができなくて、気づいたら2年も経っていました。

今回は第二章懺悔滅罪の四節目、最終節の解説です。

 

()(しゃく)所造(しょぞう)諸悪業(しょあくごう)(かい)(ゆう)無始(むし)貪瞋痴(とんじんち)

(じゅう)(しん)()()()(しょ)(しょう)一切(いっさい)()(こん)(かい)懺悔(さんげ)

(かく)(ごと)懺悔(さんげ)すれば(かなら)(ぶっ)()(みょう)(じょ)あるなり、

(しん)(ねん)(しん)()発露(ほつろ)白仏(びゃくぶつ)すべし、

発露(ほつろ)(ちから)(ざい)(こん)をして銷殞(しょういん)せしむるなり。

 

一つ前の三節目は、仏祖の往昔は吾等なり、吾等が当来は仏祖ならんと仏陀や祖師方も、私たちと同じような段階を経て完成に至られたのだから、私たちも、仏陀や祖師方と同じ境地に到達することは可能な筈だから頑張りますという決意表明で終わっていました。

その別バージョンとして、我昔所造~今皆懺悔と言う祈りの言葉もありますよと言うのが、第四節です。

 

我昔所造所悪業と言うのは、私が昔作った諸々の悪い行いはということです。

皆由無始貪瞋痴の皆由と言うのは、それがみんな理由になっています。

 

無始と言うのは、はじまりとてない、始まりから数えるというのが、不可能な程長い輪廻転生のことを指しています。

貪瞋痴と言うのは、貪り、激しい怒り、無知と言う心の煩悩のことです。

宇宙が創造される前からあった無色界(純粋意識体)の世界でも、心の煩悩だけはあったということです。

ですから、意識が堕落して、色界とか、欲界ができる前の純粋意識体しかない段階であっても、貪瞋痴と言う煩悩は存在していたということになります。

形も、物質も、何もないんだから、心の煩悩しか存在できないけれども、無色界の世界にも意識はある訳なので、心の煩悩は存在することはできるということになります。

始まりとてない過去を、どんどん遡っていっても、私がある以上は、貪瞋痴の煩悩は、常にあって、その煩悩による悪業を積んでいましたよねと言うことになります。

純粋意識体しか存在しない段階から、地獄に堕ちた段階から、すべてを含んで、皆由無始貪瞋痴と言っていることになります。

現代の私たちが、肉体で行っている悪業も、その根本には、意識の煩悩があってということもありますし、今の私たちの悪業には、身体レベルと言葉のレベルと意識レベルと言う3つの層における煩悩と悪業があるということでもあります。

 

つまり、()(しゃく)所造(しょぞう)諸悪業(しょあくごう)(かい)(ゆう)無始(むし)貪瞋痴(とんじんち)と言うのは、私が昔作った諸々の悪い行いは、宇宙創造の前から無色界においてその意識が行った始まりから数えるというのが不可能な程の昔から積んできた貪瞋痴と言う心の煩悩が、皆、原因となっていますということになります。

 

従身口意之所生と言うのは、身の行為、言葉の行為、意識の行為で、その悪業は生まれますということです。

身の行為と言うのは、身業と言って、身体を使って行う行為のことで、仏教における身の悪業とは、殺生(せっしょう)偸盗(ちゅうとう)邪婬(じゃいん)などを言います。

殺生とは、人間や生物の生命を奪うこと、偸盗は、盗むこと、邪淫は、邪悪な性行為(不倫)をすることです。

言葉の行為と言うのは、口業と言って、口を使って行う言葉の行為のことで、仏教における言葉の悪業とは、妄語(もうご)綺語(きご)悪口(あっく)両舌(りょうぜつ)などを言います。

妄語は、嘘をつくこと、綺語は、不当に飾り立てた言葉を用いること、悪口は、悪口を言うこと、両舌は、二枚舌を使うことです。

意識の行為は、意業と言って、心を使って行う行為のことで、仏教における言葉の悪業とは、貪欲(とんよく)瞋恚(しんに)愚癡(ぐち)などを言います。

貪欲は、貪り欲しがること、瞋恚は、怒り憤ること、愚癡は、真理に暗く愚かであることです。

 

これが、通常の解釈になりますが、瞑想修行を始めた人たちにとっては、意と言うのは、もっと繊細な意識のことを表します。

通常、意業と言うのは、既に心の中で言葉になっている行為のことを言いますが、瞑想に熟達してくると、言葉にならない意識を捉えることができるようになるそうです。

普通の人が心の中で考えているとわかるのは、心の中で喋っているからわかるのですが、瞑想に熟達して、意識から言葉が生成する瞬間を捉えられるようになると、言葉になるまえの繊細な意識も捉えられるようになるそうです。

そこまでいくと、言葉に変換しないで、高速で考えることができるようになるそうです。

普通に考えられている意識の悪業と言うのは、口に出さない心の言葉の悪業ですが、言葉がない意識レベルまで捉えないことには、仏道修行とは言えない訳です。

仏陀が、無常・苦・無我を発見された時の瞑想、ヴィパッサナー瞑想で、心の観察に入っていった時に、本当に心を観察することができた時と言うのは、心が言葉になる瞬間を捉えた時だということになります。

ですから、微細な意識から、粗雑な意識である言葉が生まれる瞬間を捉えられるようになるまでは、心については、ほとんど何も分かっていないという謙虚さが必要になります。

 

一切我今皆懺悔と言うのは、今の私は全ての悪業について懺悔しますということです。

 

ここでは、一つの悪業に、一つの懺悔と言う対応があります。

悪業と思えない悪業は、懺悔できません。

それが、痴、無知による懺悔の限界点です。

これだけは手放したくないと思っているものも、懺悔できません。

これが、貪―貪り・執着による懺悔の限界です。

による限界は、それだけはしたくない、それだけは間違いは認めないぞと言う否定する気持ちです。

ここで、すべての悪業に対して、すべて懺悔しますというのは、貪瞋痴による懺悔の限界をすべて消していく努力をしますという誓いや祈りの気持ちがあるということです。

すべての悪業をみんな懺悔しますということは、一切自分を正当化しませんと言うことだから、それがに対する挑戦です。

気づかない悪業があるということを無くしますというのが、に対する挑戦です。

これだけは手放したくないんですというのを捨て去る挑戦が、に対する挑戦と言うことになります。

純粋意識の貪瞋痴までなくなったら、それは、覚りの完成です。

今、やれる、やれないじゃなくて、そこに向かってどこまでも進んでいきますという決意表明がここにはあります。だから、哀れみを我に分布すべしと、哀れみによって導いてくださいとお願いしている訳です。

 

前回のブログで解説した①願わくは~仏祖ならんと言う部分は、バクティ・ヨーガ(信仰のヨーガ)的に、こんなに悪いことを累々と積んできた私ですけど、仏祖におすがりして、学んでいくための障害を取り除いてくださいという祈りになっているのに対し、今回の漢文の部分、我昔所造~今皆懺悔の部分は、他力を含んだジュニアーナ・ヨーガ(智慧・知識の道)的で、驚くほどロジカルに全体像をとらえていて、非常にタイプの違う2つの懺悔になっています。

 

第三節の終わり、吾等が当来は仏祖ならんと言うのは、大乗の修業をやっていきますという宣言で、仏陀も祖師方も、すべて弟子を育てた方々で、自分が仏祖になっていくというのは、弟子を育てられるような大乗の覚りと大乗の智慧を育てていくということを意味しています。

そして、自分の器の範囲内で、法が広まるお手伝いをしますと言っているのです。

 

冥助の冥は、冥界の冥と同じで、普通の人間の目に見えない世界の助け、霊的な手助けがありますということです。

仏陀も、祖師方も、既に亡くなっていて、実際に肉体を持って活動をしている訳ではないので、目に見えない存在になっているですけれども、そういう存在からの目に見えない手助けがあるということを言っています。

懺悔滅罪は、懺悔した対象から、ストレートに救いの手が差し伸べられるということになります。

懺悔によって、其功徳法門普く無尽法界に充満弥綸せらんの充満弥綸している法界に満ちているダルマとその功徳の恩恵を受けることができるのです。

 

仏陀は、既に、肉体を捨てているから、法界に満ちているのは、仏陀が残した功徳とダルマなので、懺悔滅罪することによって、その恩恵を受けるチャンネルに蛇口をつけて、水が飲めるようになるということを意味しています。

その恩恵の本質は、法界に満ちている仏祖の功徳・法門です。

それを人格化すれば、霊的な世界に形を残している仏陀が、人格神として自分を手助けしてくれるということになりますが、人格神だけが神ではなく、無色界の純粋意識体の神々と抽象的なダルマとの区別は、殆どつけられないので、その素晴らしいダルマに帰依するという形もあり得るということになります。

 

是の如く懺悔すれば必ず仏祖の冥助あるなりというのは、このように懺悔すれば、必ず目に見えない存在になっている仏祖の手助けがありますということになります。

神と言う存在がいるのか、いないのかと言う議論はともかくとして、驚くほど色々な存在形態で、神と呼びたいような素晴らしい存在は存在しているということなのかもしれません。

 

心念と言うのは、心の集中で、身儀は、身体の形式や正しい姿勢のことです。

この身儀と言うのは、ラージャ・ヨーガ(武術的身体でヨーガをやるという特殊なヨーガ)的な観点でもありますが、ちゃんと手を合わせるとか、服装は整えるとか、やる前に手を洗うとか、沐浴をするとか、身体レベルで、きちんと自分を整えていくという礼儀正しさを持つようにと言う意味も含まれています。

高貴で、自分を手助けしてくれる存在に対して、きちんとマナーを守って向かい合うという準備をしてから、ちゃんとやりなさいと言っているのです。

心念だけでは、人は簡単には変われないし、すぐにへんてこりんな方に行くから、身儀で外枠をきちんと作っておかないと、正しい修行によって正しく変わっていかないという道元の親切心がそこにはあります。

発露と言うのは、何かに露がつくことです。

現代科学的には、露と言うのは、大気中の水蒸気が凝結して液体化することですが、道元の生きた時代では、内側から水が滲み出てくるという風に理解していたので、発という漢字を着けて、内側にあった水分が滲み出て、表面に露としてつくように、外から言われたからやるのではなくて、本当に申し訳ないという気持ちが心にあって、その気持ちが自然と懺悔の言葉となって出てくるような形でやりなさいと言うことを言っているのです。

つまり、自分のなした悪業に対して、言い訳をしないということになりますし、心の中で抵抗してはいけないということになります。

白仏の白と言うのは、告白の白と一緒なので、内側から露が滲み出るような形で、仏祖及び祖師方に告白しなさいと言うことになります。

すべしというのは、可能であるという意味と命令するという意味がありますので、告白しなさいだけでなくて、そういう風に人は変わっていけるんだから、それを目指して頑張りなさいと言う意味も込められている可能性もあります。

 

ですから、心念身儀発露白仏すべしというのは、懺悔滅罪をする時には、心の集中をしっかりとして、正しい心の集中ができる正しい身体の姿勢をしてください。

そして、本当に申し訳ないという気持ちを持って、仏陀や祖師方に告白してくださいということになります。

 

ここで、そうは言ってもと言い訳をすると、仏祖の冥助が入ってくる扉を閉じることになりますので、冥助の扉をきちんと開いて、通路を邪魔しないようにするのが、発露、白仏、心念、身儀です。

心念と身儀と発露の3つの条件が整った白仏をすれば、仏祖の冥助を完全な形で受け取ることができるのです。

不完全なら、不完全なりの冥助はありますが、完全な冥助を目指すことが可能なんだから、やりなさいと言うことになります。

 

こういう話を聞くと、心から悪いと思えないのに、懺悔の修業をするのは、間違っているんじゃないですか?とか、本当に悪かったと思って懺悔できるようになるまで、懺悔の修業をしちゃダメなんじゃないですか?と考えたり、言ったりする人が出てきます。

それは、懺悔から逃げる自分を正当化しているということで、あなたにとって損失になります。

懺悔の修業をしていく中で、段々と結構まずいんだなと言うことが、心に沁みてくる場合もあるからです。

悪いと分かった私が、私の中に一人でも生まれた段階で、その人に懺悔の修業の先導をしてもらって、他の人は邪魔をしないように注意深く活動するようにすれば良いということになります。

それをやっていれば、段々と懺悔しなくちゃと思っている私が増えてくることになります。

懺悔から逃げる自分を正当化し続けるということは、理想とする男性が現れて、自分にプロポーズするまで結婚しませんと言っている女性と一緒で、気が付くと結婚・出産して家庭を築くこととが難しい年齢になっているというのと同じだということになります。

 

心念身儀発露白仏すべしが、理想なのは、その通りですけれども、その理想形ができなかったら、やっても意味がないというのは、大間違いだということになります。

理想形じゃなければ、やらないというのは、生意気で謙虚さがないということだそうです。

 

懺悔滅罪の中核には、発露の力があって、心念・身儀・白仏はその根本である発露を生み出すためにあります。

懺悔滅罪の修業は、やればその段階のレベルでやっただけの結果をもたらしますが、最終的な究極の結果と言うのは、発露の段階に入って初めて、その結果を獲得することになります。

いきなり、発露をしようと思っても難しいので、心念、身儀、白仏と言う条件を整える中で、発露に向かって進んでいくことになるので、発露は、懺悔滅罪の修業におけるゴールと言うことになります。

つまり、発露の力と言うのは、懺悔滅罪の完成によって獲得する力だということになります。

その懺悔滅罪の完成された力が、罪根をして銷殞せしむるなりです。

 

罪根と言う根っこが出てくるのは、発露の力まで到達しないと、根っこは引き抜けないという意味が込められています。

反省とか、後悔ではなくて、何故懺悔が必要なのかと言うと、雑草を刈る時に、上の草だけを刈っても、またいつの間にか雑草が生えてくるので、心念身儀発露白仏の完成形に到達するためには、罪を犯す根っこが力を失って、二度と雑草が生えてこなくなるようにすることが必要なのです。

銷殞と言うのは、消すと鎮めるという2つの意味を持つ言葉です。

つまり、消すは根っこを引き抜いて無くすこと、鎮めるというのは、根っこから芽が吹き出す力がなくなり、根っこはあるけど、生命力はないから、新たに地上に雑草を成長させる力がないということを表しています。

発露の発には、内側から露が滲み出ることで、露とは、混じりけのない純粋な水の状態と言う意味も込められているので、発露はゴールだということになります。

最初は水が出ないかもしれない、次は、濁った水が出てくるかもしれない、でも、最終的には純粋な水が中から湧き出てくるようにするということで、最終的には清らかな水が中から湧き出てくるようにしましょうということが込められているのです。

だから、すべしは、可能だからやれ!と言う意味になります。

やりなさい、しなさいという意味だけで捉えると、そういうことは私にはできませんから、私にはやる資格がないという人も出てくるので、すべしというのが、昔は、可能であるという意味がより強かったということを考えれば、すべしというのは、資格のことを言っているのではなくて、可能性について語っているということが分かります。

 

自分では悪いとは思えないんだけど、仏典を読むと、それは悪いことだと書いてあるから、取り敢えず懺悔してみようかと思っている内に、悪いことが理解できるようになるという段階もある訳です。

それが、戒に基づいて懺悔するという段階です。

悪いと思ったという前の段階から、懺悔の修業はできるけど、最終的なゴールは、発露の形で行うことですよと言っているのです。

自分の中から、本当に悪かったという気持ちが溢れてきたものを懺悔するようになって初めて、罪根をして銷殞せしむるなり、罪を根っこから消して鎮める力が発生するということになります。

 

ここで大事なのは、悪いと思える力を与えてくれるのも、懺悔の修業だということです。

悪いと思わなければ、生きていく間に、ひたすら悪業が積みあがっていくことになりますが、普通の人のレベルでは、悪いことを悪いと思えるようになっていくことが、懺悔の修業の中で、一番わかりやすくて、一番大事な結果をもたらす修行だということになります。

ですから、悪いと思っていなくても、戒律やダルマに基づいて、違反していると思ったら、懺悔してみるというところからスタートすれば良いのです。

それが、一番結果は早いそうです。

ですから、悪いと思ってもいないのに、懺悔するのは、偽善じゃないですか?と言うことを言っていては損だということになります。

 

天性の修行者としての素質の良い生命体の場合には、ダルマ・法だけがあれば良いけれども、仏陀と言う人格神の形を取ったダルマ・仏がないとうまく入っていけない人もいます。

人格神じゃなくて、身近にいるこの人が素晴らしいから、この人がやれというんだったら、やってみるかと言うことで入ってける人は、サンガ・僧に助けられるということになります。

経典を読んで、経典に叱られるとか、経典に叩きのめされるということが起こる状態になっていれば、仏陀も、サンガもなくて、ダルマだけで良いんだけど、経典を読んでそう言う経験がない内は、仏陀とか、サンガの助けが必要です。

 

仏像と言うのは、そういう手掛かりが必要だからある訳です。

お寺とか、仏像とか言うのが、儀の世界で、姿勢が身の世界ですけれども、身儀を姿勢とか、祭壇と言う風に解釈しても良いけど、身体の形式と言う意味で、身儀を姿勢と読むこともできます。

そのように、一つの言葉に何重もの意味が乗せられているのが、経典だということになります。

 

この一節をまとめると次の様になります。

 

私が昔から作ってきた諸々の悪い行いは、宇宙創造の前からあった無色界においてその意識が行った始まりから数えるのが不可能な程の昔から積んできた貪瞋痴と言う心の煩悩が、皆、原因になっています。

その悪業は、身の行為、言葉の行為、意識の行為の形で生まれます。

今の私は、そのすべての悪業について懺悔します。

このように懺悔すれば、目に見えない存在になっている仏陀や祖師方の手助けが必ずあります。

ですから、懺悔滅罪をする時には、心をしっかり集中して、正しい心の集中ができる正しい身体の姿勢を取ってください。

そうすれば、自分の内側から清らかな露が滲み出してくるような形で、仏祖や祖師方に悪業を告白することができます。

自分の中から、本当に悪かったという気持ちが溢れてきたものを懺悔するようになって初めて、罪の根っこを抜いて、消して鎮める力が発生することになります。

 

いかがでしたでしょうか?

 

実は、今日は、還暦の誕生日です。

還暦と言うのは、占星術的に言うと、12年で12星座を一周する木星と30年で12星座を一周する土星が、自分が生まれた時の位置に戻ってくることを意味します。

ですから、人生の節目として大切な時期になるということになります。

修証義の解説をやりたいやりたいと思う気持ちがありながら、それを書く時間を取れずに2年が過ぎてしまいましたが、この懺悔滅罪の最終節をこの日に書くことになりました。

それは、還暦を迎えて、これから、私も、懺悔滅罪をしながら生きていきたいという決意表明でもあります。

 

修証義と言うのは、取り組むべき課題の順番に、仏教の神髄が語られている文章です。

まず、悪業を懺悔してから、仏をよりどころにして仏法の修業に入っていきます(受戒入位)

その後、菩提心を起こして、一切衆生を救うことに取り組んでいくことになります(発願利生)

まずは、懺悔滅罪をすることが、すべての始まりだということになります。

 

私は、修証義こそ、人生の道しるべであり、幸福に生きるためのバイブルだと思っています。

書き下し文で書かれているために、漢文のお経と違って、唱えることで、日本人だったら、言葉から自然に沁みてくるものがある貴重なものだと思っています。

もし、少しでも共感するものを感じた方は、私のホームページで、修証義抜粋の文章をPDFでダウンロードできるようにしてある(修証義抜粋)ので、印刷をして、声に出して読んでみると良いと思います。

 

機会あるごとに唱えて、自分の心身に沁み込ませていくことが、そんじょそこらの開運法よりも、効果があるというのが、私の実感です。