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修証義解説 第5弾 第1章 総序 第3節 命ははかない、確かなのは行為だけ

 

無常(むじょう)(たの)(がた)し、()らず露命(ろめい)いかなる(みち)(くさ)にか()ちん、()(すで)(わたくし)(あら)(いのち)光陰(こういん)(うつ)されて(しばら)くも(とど)(がた)し、紅顔(こうがん)いずくへか()りにし、(たず)ねんとするに(しょう)(せき)なし、(つらづら)(かん)ずる(ところ)往事(おうじ)(ふたた)()うべからざる(おお)し、無常(むじょう)(たちま)ちに(いた)るときは国王(こくおう)大臣(だいじん)親暱(しんじつ)従僕(じゅうぼく)妻子(さいし)珍宝(ちんほう)たすくる()し、(ただ)(ひと)黄泉(こうせん)(おもむ)くのみなり、(おのれ)(したが)()くは(ただ)()(ぜん)(あく)(ごっ)(とう)のみなり。

 

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無常(むじょう)(たの)(がた)し、()らず露命(ろめい)いかなる(みち)(くさ)にか()ちん、()(すで)(わたくし)(あら)

  

あらゆるものが転変していく、この宇宙の根本原則としての無常の中で、命ははかなく頼りにならない無常なものです。早朝、草に朝露がついて、キラキラ光ってきれいだけれど、ほんのわずかな風が吹けば、それはポロンと道に落ちてしまいますし、風が一切吹かなくても、陽が昇ってくると蒸発してなくなってしまいます。

 

①死んだときには、もう自分の身体は、自分のものではなくなっています。だから、コントロールすることはできません。

 

この解釈①は、身已に私に非ずというのが、無常憑み難し、知らず露命いかなる道の草にか落ちんの後に来る文章だと考えた場合の解釈です。

 

これを、命は光陰に移されて暫くも停め難しから続く文章の冒頭に来る文だと考えると、

 

②自分の身体は、取り敢えず自分のコントロールできるものではないから、私を無視して、勝手に変化していきますと捉えることもできます。

 

 また、第三の解釈としては、『身已に私に非ず』と言うのは、已にと言うのが、身体は已に自分のものではないと言うことは、身体以外も自分のものではないということをさりげなく示唆していると読み取れない訳ではありません。

 

『身已に私に非ず』と、身体に対して已にと言う言葉をつけていると言うことは、身体にとどまらない形で、私ではないと言うのが拡がっていると言う風に考えると、これは完全に覚りの世界についての記述だと言うことになります。

 

③死んだときは、もう自分の身体は自分のものではなくなっています。身体にとどまらない私についても自分のものではありません。覚りの世界では、無我なので、自分の身体も、そうでない私も自分のものだと呼ぶことができないのですから、まして家族・親戚とか、社会的地位・お金が自分のものである筈がありません。

 

この已にと言う言葉がついているだけで、この三つの解釈を許す深さが出ていることになります。

 

そしてその三つのどれが正しいと言う訳でもなくて、その三つが響き合っているのが経典だということなのです。

 

 

(いのち)光陰(こういん)(うつ)されて(しばら)くも(とど)(がた)し、紅顔(こうがん)いずくへか()りにし、(たず)ねんとするに(しょう)(せき)なし、(つらづら)(かん)ずる(ところ)往事(おうじ)(ふたた)()うべからざる(おお)

 

昼と夜の繰り返しと言う時の流れが止めることができないように、その時間の変化によって、自分の命が変化していくことも、少しの間も止めておくことはできません。

 

紅が差しているような血色の良い顔も、いつしか面影を失い、どこかに消えてしまって、いくら探そうとしても、痕跡すら見つけることができません。

 

じっくりと細かい変化を見るようにしないと、過ぎ去ってしまった時間は、二度と戻らないことがわからないのです。

 

この背景には、唐時代の劉廷芝の『代悲白湯翁(白頭を悲しむ翁に代わる)』と言う漢詩が背景にあります。

 

昔、紅顔の美少年だった頃の自分を懐かしんで嘆いている白髪頭のお爺さんを表した漢詩です。

 

昼と夜の変化、つまり地球の自転によって起こる時の流れの顕れを止めようとは思わないのに、歳を取りたくないとか、いつまでも若く元気でいたいとか、変わらずにいられるとか平気で考えると言うことは、地球の自転を止めたいと思うのと大差ない無理な欲望ですよと言っている訳です。

 

熟観ずる所にと言うのは、去年の美しい顔と今年の顔は、ほんの少しの差で熟観ずることをしないと見えてこないけれども、2年前の顔、3年前の顔、5年前の顔、10年前の顔という風に、しっかりと観察すれば、曖昧に見ていると同じように見えるものが、はっきりと差があることがわかってきます。

 

仏教的には、ヴィパッサナーの観察のレベルが上がってくれば、細かい変化も見えてくる筈だと言うこともあるでしょう。

 

熟慮がなければ、無常は見えないと言うことを言っているのです。

 

そしてその熟慮の前に、熟観―しっかりと観ることをしないと、そこに無常の痕跡や顕れを見つけることができないし、正しく熟慮することもできないということなのです。

 

熟観せずに、表っ面を見ていたり、曖昧にぼやっと観ていたりするから、自分はいつまでも変わらないとか、老化して衰えることはないとか、間違った認識をするんだよと言うことを言っているのです。

 

 

無常(むじょう)(たちま)ちに(いた)るときは国王(こくおう)大臣(だいじん)親暱(しんじつ)従僕(じゅうぼく)妻子(さいし)珍宝(ちんほう)たすくる()し、(ただ)(ひと)黄泉(こうせん)(おもむ)くのみなり、(おのれ)(したが)()くは(ただ)()(ぜん)(あく)(ごっ)(とう)のみなり。

 

死が自分の身に突然訪れるときには、自分の上にあって自分を助けてくれる存在である国王・大臣と言う権力のシンボル、横繋がりの血縁関係の中で安定や力をもたらし助けてくれる存在である親戚・親族、自分の下にあって自分を支えてくれる存在である従僕、プライベートな感情で繋がっている人たちである配偶者と子供、お金を含めた財産は、助けてくれません。

 

ただ一人きりで黄泉の国(死後の世界)に行くだけです。

 

自分についていくのは、ただ身口意でなした善行為と悪行為のカルマだけなのです。

 

ここで言う無常というのは、無常の風のことです。無常の風というのは、突然訪れる死のシンボルで、それはいつ吹くかわからなくて、その風が吹いたら、忽ちに死が訪れると言うことです。到ると言うのは、それが自分の身に訪れると言うことで、死ぬと言うことを意味しています。

 

ここでは、短い文章の中で、無常の意味する内容が、どんどん変わっています。一つ前の無常憑み難しというのは、あらゆるものが転変していく、この宇宙の存在法則のようなものでしたが、その前の露命を無常の風に任すること勿れの無常の風というのは、無常の法則のことですが、死とイコールになっています。そして風というのは、どんどん強さも向きも変わっていくものなので、その日その日の関心とか、興奮とか、悲しみに押し流されて、目先のことに対応して生きていく生き方と言うのが、無常の風に任せる生き方だと言うことになります。

 

ですから、自覚的に自分は必ず死ぬ、老い病み死んでいくと言うことを考えて、今日一日、何をして過ごした方が良いかを考えて生きた方が良いよと言う意味も含まれています。

 

そして、無常の風は、天変地異や事故や病気という形で、いつ自分の身に吹くかわからなくて、突然、死が訪れるときには、誰も助けてはくれないので、ただ一人で死の世界にいくだけだと言うことです。

 

 

 

国王大臣親暱従僕妻子珍宝たすくる無しと言うところで、ずらずらと並んでいるリストというのは、権力、財力、人間的なネットワーク、プライベートな感情の繋がりと、人間が依存しているものをほぼ網羅しています。

 

大体、人間は、これらのどれか一つに強く依存して、残りにもある程度依存して生きています。

 

でも、それは死んだ後には、全然助けになりませんと言われると、結構ショックだったりします。

 

生きている間は、社会的に認められてお金持ちになるために頑張っている人もいるでしょうし、妻子のために頑張っている人もいるでしょうが、そのすべてが死後は持っていけるものではないと言うことなのです。

 

それじゃあ、何のために一生懸命に生きて努力しているの?と思うかもしれません。

 

 

死ぬ時に、持って行けるもの(持っていかなくてはならないもの)は、自分が(しん)(くう)()でなした善行為と悪行為のカルマだけなのです。

 

ですから、持って行けないものよりも、持って行けるものを大切にして生きた方が良いと言うことになります。

 

身口意というのは、自分が身体でしたこと、言葉として言ったこと、心で思ったことです。ですから、持っていくのは、人を殴ったり、暴言を吐いたりしたことだけではなくて、心の中で「腹が立つ!」とか、「許せない!」とか思ったことも持っていかなければならないと言うところが、怖いところです。

 

なるべく良いことをなして、なるべく悪いことをなさないように生きないと、その積み重ねだけは持っていかなくてはならないので、そういう生き方をした方が良いですよと言うことです。

 

悪いことをしないように、悪いことを言わないようにということは、気をつけていても、心の中で思ってしまうことは止められないと言うのが、普通の人だと思います。

 

そのレベルよりも、まず悪いことだと思わずにしてしまっている本当は悪いこと、良かれと思って言っている本当は良くないことに、できるだけ気づける自分になりたいものだと思っています。

 

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あらゆるものが転変していく、この宇宙の根本原則としての無常の中で、命ははかなく頼りにならない無常なものです。早朝、草に朝露がついて、キラキラ光ってきれいだけれど、ほんのわずかな風が吹けば、それはポロンと道に落ちてしまいますし、風が一切吹かなくても、陽が昇ってくると蒸発してなくなってしまいます。

 

死んだときは、もう自分の身体は自分のものではなくなっています。身体にとどまらない私についても自分のものではありません。覚りの世界では、無我なので自分の身体も、そうでない私も自分のものだと呼ぶことができないのですから、コントロールすることはできません。まして家族・親戚とか、社会的地位・お金が自分のものである筈がありません。

 

昼と夜の繰り返しと言う時の流れが止めることができないように、その時間の変化によって、自分の命が変化していくことも、少しの間も止めておくことはできません。

 

紅が差しているような血色の良い顔も、いつしか面影を失い、どこかに消えてしまって、いくら探そうとしても、痕跡すら見つけることができません。

 

じっくりと細かい変化を見るようにしないと、過ぎ去ってしまった時間は、二度と戻らないことがわからないのです。

 

死が自分の身に突然訪れるときには、自分の上にあって自分を助けてくれる存在である国王・大臣と言う権力のシンボル、横繋がりの血縁関係の中で安定や力をもたらし助けてくれる存在である親戚・親族、自分の下にあって自分を支えてくれる存在である従僕、プライベートな感情で繋がっている人たちである配偶者と子供、お金を含めた財産は、助けてくれません。

 

ただ一人きりで黄泉の国(死後の世界)に行くだけです。

 

自分についていくのは、ただ身口意でなした善行為と悪行為のカルマだけなのです。