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修証義解説 第3弾 第1章 総序 第1節 仏教の目的

 

開経偈(かいきょうげ)()()(せい)願文(がんもん)を唱えてから、いよいよ修証(しゅしょう)()本文に入っていきます。

 

総序(そうじょ)

 

(しょう)(あき)らめ()(あき)らむるは仏家(ぶっけ)一大事(いちだいじ)因縁(いんねん)なり、生死(しょうじ)の中に(ほとけ)あれば生死(しょうじ)なし、(ただ)生死(しょうじ)(すなわ)涅槃(ねはん)心得(こころえ)て、生死(しょうじ)として(いと)うべきもなく、涅槃(ねはん)として(ねご)うべきもなし、(この)(とき)(はじ)めて生死(しょうじ)(はな)るる(ぶん)あり、(ただ)一大事(いちだいじ)因縁(いんねん)(ぐう)(じん)すべし。

 

 

(しょう)(あき)らめ()(あき)らむるは仏家(ぶっけ)一大事(いちだいじ)因縁(いんねん)なり

  

生まれ生きることを明らかにし、死んでまた転生を繰り返していくという輪廻転生のことを明らかにすると言うことは、仏道修行者にとって、最も大切な条件であり、その条件の原因でもあります。

 

生と死というのは、生きる(生まれる)意味、死ぬ意味という解釈もできますが、ここでは、今回生まれて死ぬと言うことだけでははなく、生と死が永延と繰り返されている輪廻転生のことを言っています。

 

明らめる(諦める)という字は、日と月から成り立っていて、昼は太陽、夜は月が照らし出すことによって物事がはっきり見える力を持つというところから派生しています。明らめる(諦める)という言葉には、物事が明らかに見えれば、断念するしかないものを断念できるようになると言う意味合いが含まれています。

 

ですから、明らめ(諦め)が悪いと言うのは、物事がみえないために、しょうがないものに執着していると言うことで、明らかに見えれば、執着しても無意味だと言うことが自ずからわかってくるでしょうということなのです。

 

ここでは、死後天国に行くために生きることを説く宗教と違って、生きることは苦なので、永延と続く輪廻転生自体が苦しみなので、そこからどうやって脱却(解脱)していけばいいんだろうという仏教の根本思想があります。

 

道元は、仏教を信じることは、仏家という家に生まれ育つものであると言う感覚を持っていました。

 

日本の家に生まれたら、その家の家風に従うのが一番自然で、縁を感じたら仏教徒になれば良いと言う感覚でした。

 

因縁というのは、因縁果報という言葉の前半二文字で、因は原因、縁は条件のことを意味します。

 

因縁果報と言う言葉は、原因が縁という条件を得て、結果を生じる。その結果が波及的にまた次の変化をもたらしていくのが報(報い)で、果(結果)がまた次の因(原因)になる。その因が業(カルマ)で、それが尽きないから永延と輪廻転生をしていくということになります。

 

インド占星術というのは、この業(カルマ)を読み取るものです。

 

過去世に作った原因によって、今生の結果が果としてある。今生生まれた条件の中で、結果を出すものだけが結果を出すと言うのが縁で、縁がなければ結果を生まないのです。

 

仏家に生まれたと言うのも、縁があったからそこに生まれてきたのだから、それを感じられたら仏教徒として生きれば良いと言う思いもあったのでしょう。

 

そして、ここでは因縁の二文字しか出てきませんが、果報の二文字も隠れていると言うことです。

 

つまり、(しょう)(あき)らめ()(あき)らむるは仏家(ぶっけ)一大事(いちだいじ)因縁(いんねん)なり と言うのは、

 

生と死の明確な理解が、仏教徒として生き、覚りを目指して進歩していく過程において、最も大事な条件であり、その条件の原因です。 と言うことになります。

 

この因縁によって仏道修行者として進歩していって、最終的には、解脱・覚りに達すると言う果(結果)をもたらすからこそ因縁なのです。因縁果報の因縁だけを言っていますが、その先には果があると言うことを表しているのです。

 

 

生死(しょうじ)の中に(ほとけ)あれば生死(しょうじ)なし

 

輪廻転生をし続けるなかで、仏法僧(ぶっぽうそう)との出会いがあり、自分の中にそれを内在させるならば、輪廻転生の苦しみからは本質的に解放されています。

 

 

仏が自分の中に内在していると言うことは、ある段階の覚りを確定していると言うことで、その段階で生死の苦しみは、本質的には終わっています。

 

もちろん、本質的に解放されていても、プロセスを進み終わるまでは、輪廻転生は終わらない訳ですけれども。

 

仏というのは仏法僧のことです。

 

仏教というのは、三宝帰依を土台にしています。

 

三宝というのは、仏法僧のことで、仏は仏陀釈迦牟尼本人のこと、法は仏陀が発見し説いた真理の教えのこと、僧は法を受けたもつ教団()のことです。

 

仏陀がこの世に生まれて、真理を発見しなければ、仏教はなかった訳ですが、それを脈々と伝えてくれたそれを支える教団()がなければ、現代まで仏教の教えが伝わることはなかったので、その三つを大事にすると言うのが根本にあります。

 

ですから、修証義のお唱えの前に、三拝(三回お辞儀をする)という形で、仏陀とその教えとそれを伝えてくださった人たちに深く感謝をしてから、修証義を読誦することにしています。

 

  

(ただ)生死(しょうじ)(すなわ)涅槃(ねはん)心得(こころえ)

 

ただ、生死(輪廻転生)が涅槃(ニルヴァーナ)だと心得て

 

 

涅槃(ニルヴァーナ)と言うのは、煩悩の火が吹き消された状態のことです。

 

ここで、心得てと言う言葉を使って、涅槃ですと断言していないところが道元らしいところです。

 

 

生死(しょうじ)として(いと)うべきもなく、涅槃(ねはん)として(ねご)うべきもなし

 

輪廻転生を嫌ったり、涅槃を要求したりするものではありません。

 

 

涅槃(ニルヴァーナ)というのは、煩悩の火が吹き消された状態なので、厭うとか、欣うとか、強い心の働きが存在している訳がありません。

 

厭うも、欣うも、心の働きなので、そういうものがある間は涅槃ではありませんと言うことです。

 

ただ、最初から、生死を厭うこともなく、涅槃を欣うこともなければ、求道(ぐどう)(しん)がないから、仏道修行に入っていけないと言う部分もあります。

 

輪廻転生から逃れたいと思って、煩悩を減らし、最終的には解脱することを欣うと言うのが、仏教を含めたインド宗教の根本的な土台ですが、その土台にいつまでもこだわっていては、最終的な目標地点には行けませんよと言うことがここで語られています。

 

 

(この)(とき)(はじ)めて生死(しょうじ)(はな)るる(ぶん)あり

 

 

輪廻転生を厭うとか、涅槃を欣うとか、そういう心の働きが止まった時に初めて、輪廻転生から解放されることになります。

 

 

 

嫌がったり、希望したりと言う強い感情を持っていたのでは、六道輪廻に固定されてしまいます。

 

六道と言うのは、仏教において迷いのあるものが輪廻転生すると言う、6種類の苦しみに満ちた世界のことです。天道(天界道)、人間道、修羅(阿修羅)道、畜生道、餓鬼道、地獄道の6つの世界です。

 

六道輪廻の法則とは、エゴが強くて、自分のことしか考えない程度において、低い世界に生まれていくということです。戒律を守って、悪業が少なく、功徳を積んで徳が多いと言うことに加えて、どれだけ自分のためだけに生きないかによって、転生する世界が高くなっていきます。

 

 

 

(ただ)一大事(いちだいじ)因縁(いんねん)(ぐう)(じん)すべし。

 

 

輪廻転生の意味とか、涅槃の意味などについては、難解な教えなので、究め尽くしていかなければなりません。

 

 

 

究め尽くすと言う言葉を使っているのは、そうしなければならないほど難しいことなのですと言う意味です。

 

難解な教えなので、文字面で解釈してはいけません。頭で理解すると間違いをするので、深く究め尽くしていかなければいけませんと言っているのです。

 

 

 

生と死の明確な理解が、仏教徒として生き、覚りを目指して進歩していく過程において、最も大事な条件であり、その条件の原因です。

 

輪廻転生をし続けるなかで、仏法僧との出会いがあり、自分の中にそれを内在させるならば、輪廻転生の苦しみからは本質的に解放されています。

 

ただ、生死(輪廻転生)が涅槃(ニルヴァーナ)だと心得て、輪廻転生を嫌ったり、涅槃を願ったりするものではありません。

 

輪廻転生を厭うとか、涅槃を欣うとか、そういう心の働きが止まった時に初めて、輪廻転生から解放されることになります。

 

輪廻転生の意味とか、涅槃の意味などについては、難解な教えなので、究め尽くしていかなければなりません。