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修証義解説 第7弾 第1章 総序 第5節 自己の心と行為に責任を持つ

 

 

 

善悪(ぜんあく)(ほう)三時(さんじ)あり、(ひとつ)(には)順現(じゅんげん)報受(ほうじゅ)(ふたつ)(には)順次(じゅんじ)生受(しょうじゅ)三者(みつには)順後(じゅんご)(じじゅ)、これを三時(さんじ)という、(ぶっ)()(どう)修習(しゅじゅう)するには、(その)最初(さいしょ)より(この)三時(さんじ)業報(ごっぽう)()(なら)(あきら)らむるなり、(しか)あらざれば(おお)(あやま)りて邪見(じゃけん)()つるなり、(ただ)邪見(じゃけん)()つるのみに(あら)ず、悪道(あくどう)()ちて長時(ちょうじ)()()く。

 

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善悪(ぜんあく)(ほう)三時(さんじ)ありとは、善業・悪業の報いが返るのは、三時という3種類の返り方があり、因果応報までのタイムラグには3種類あると言うことを言っています。

 

ここでは、今生を規準にして、今生積んだ善行・悪業がいつ返ってくるかと言うのには、3つのパターンがあると言う形で言っています。

 

 

(ひとつ)(には)順現(じゅんげん)報受(ほうじゅ)

 

一者現報と言うのは、今生、積んだ善業・悪業について、今、生きている私の身体で現世においてその報いを経験すると言う場合です。

 

いわゆる、1回の転生の中で積んだ報いがその生において返ってくると言うパターンになります。

 

現報と言うのは、世果として受けると言うことで、現世果報と言う四文字熟語の中の現と報で語られています。

 

 

(ふたつ)(には)順次(じゅんじ)生受(しょうじゅ)

 

二者次生と言うのは、最初の現世果報に対して、今回積んだ善業・悪業について、次生果報、次の生で報いを受け取ると言うことです。

 

これは、前節で、因果応報は、毫釐も忒わざるなり(髪の毛1本の違いもなく起こる)と言うことに対して、「悪いことをしても、報いが返ってこずに、死ぬまで幸せな人が、いっぱいいるじゃない?」と言う反論に対して、今生報いが返ってこなくても、来世では返ってくるんだから、不公平はないんですよと言う解答の意味も含まれています。

 

 

三者(みつには)順後(じゅんご)次受(じじゅ)

 

三者後次と言うのは、今回積んだ善業・悪業の報いを、生果報のに受け取ると言うことで、次の生よりも先の生で受け取ると言う場合のことです。

 

この順後次受と言うのが、キリスト教や浄土教など、来世の果報を求めて信仰する宗教との決定的な差になっています。

 

キリスト教は、死後天国にいけば、幸福な永遠の命を得ることができると言う教えですが、そう言う信仰によって来世幸福になったとしても、その命も無常だから、いくら寿命が長かろうが、その命が尽きた時は、また転生が再開すると言うことを、ここで宣言していると言うことになります。

 

道元の時代は、乱世で、人間の努力が虚しく思えるほど厳しい社会情勢だったために、今生のすべての苦しみは、来世で清算されてきちんと返ってきて、そのためには信仰だけが、唯一それをもたらすと言う教えが一番フィットした時代で、その流れの中で浄土宗が拡がっていく真っ最中でした。

 

だから、極楽に行けば救われる(終わる)と言ってしまうと、仏教の絶対的真理、無常を否定することになるからもう仏教でないよねと言う浄土教系の教えに対する矛盾の指摘と言う挑戦的な要素もここには含まれています。

 

極楽に行ったとしても、そこも無常の生命の世界だよねと言う突っ込みがあるのです。

 

 

(ぶっ)()(どう)修習(しゅじゅう)するには、(その)最初(さいしょ)より(この)三時(さんじ)業報(ごっぽう)()(なら)(あきら)らむるなり

 

仏陀釈迦牟尼が説いた伝統的な仏教が壊れていない仏教的真理の道を修行するためには、その最初から、この3つの善業・悪業の返り方があると言う理屈を理解するしかありません。

 

存在すること自体が、無常の法則にのっとって存在している訳ですから、永遠不滅の極楽とか、天国とか言うのは、根本原理的に不可能だと言うことでもあります。

 

つまり、最初から、この善悪の報に三時があることを、きちんと踏まえて仏教の修行に入っていけば、来世宗教に関心を持つこともないし、善悪の返りはないという現実を指摘する人の反論にひるむことはありませんと言うことです。

 

効い験らむるなりと言うのは、効能・効果を発揮できるところまで、きちんと自分の中に内在させておかなければいけないと言うことで、単に頭で理解するだけでなくて、因果の否定や来世宗教の否定がきちんとできるところまで、自分の思考として使いこなせるようになっていないといけませんと言うことを言っています。

 

(しか)あらざれば(おお)(あやま)りて邪見(じゃけん)()つるなり、(ただ)邪見(じゃけん)()つるのみに(あら)ず、悪道(あくどう)()ちて長時(ちょうじ)()()く。

 

そうでなければ、多くのケースで道を誤って邪見―間違った見解に陥ってしまいます。

 

ただ間違った見解に陥るだけでなく、地獄・畜生・餓鬼という三悪道に転生して、長い期間苦しみを受けることになります。

 

地獄では短時間に何度も殺されるので1回の生は短いのですが、地獄の苦しみに対して、恨みや怒りを持たないでいることは難しいので、身体が破壊されてもあっという間に地獄界に再生するので、地獄界から抜け出せないと言う意味で長い間苦しむことになります。

 

畜生界も、上の世界に転生するカルマを積むのが難しい世界なので、死んでもまた畜生界に生まれて、畜生界から抜けられない生は長くなると言うことになります。

 

餓鬼の世界も、鬼道(死者の霊)の中の一番地獄に近い飢えに苦しむような徳のない霊界ですが、霊的生命体の世界は物質的身体よりも省エネなので寿命が長く、長い間苦しむことになります。

 

つまり、三悪道、地獄・畜生・餓鬼のどこに行っても、その世界から長く抜けられなくて長期間苦しみを経験することになると言うことです。

 

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今生積んだ善業・悪業の報いが、いつ返ってくるのか? その因果応報までのタイムラグには、三時という三種類の返り方のパターンがあります。

 

一つ目は、今生、積んだ善業・悪業について、今、生きている私の身体で現世においてその報いを経験すると言う場合です。

 

二つ目は、最初の現世果報に対して、今回積んだ善業・悪業について、次の生で報いを受け取ると言う場合です。

 

三つ目は、今回積んだ善業・悪業の報いを、次生果報の後に受け取ると言うことで、次の生よりも先の生で受け取る場合です。

 

この善業・悪業の報いの受け取り方に3つのパターンがあると言うことを、三時と言います。

 

仏陀釈迦牟尼が説いた伝統的な仏教が壊れていない仏教的真理の道を学習し修行するためには、その最初から、この3つの善業・悪業の返り方があると言う道理を単に頭で理解するだけでなく、効能・効果を発揮できるところまで、自分の思考として使いこなせるようになっていなければいけません。

 

そうでなければ、多くのケースで道を誤って邪見―間違った見解に陥ってしまいます。

 

ただ間違った見解に陥るだけでなく、地獄・畜生・餓鬼という三悪道に転生して、長い期間苦しみを受けることになります。