2019年7月22日~24日に、アンマ来日プログラムが、東京流通センターで、開催されますが、それに先立って、アンマの直弟子であるシャンタジが、『愛を育てる―愛することと、愛であることの違い』と言うテーマで講演をしてくださいました。
その内容の走り書きを書いてみました。
本当の愛とは、貧しい人や苦しんでいる人への思いやりです。
悲しみに暮れる人を慰め、貧しい人の助けになりましょう。
「愛を育てる」とは、「思いやりを育てる」ことです。
チャリティの語言は、ラテン語のカリタスで、思いやり、親切、優しさ、敬意、愛情、愛、人類愛などを含んでいます。
そこには活動するというニュアンスはなく、上に書いたようなハートの心構えのことを言います。
私たちのチャリティの心構えが、世界への捧げものになります。
それが、真のチャリティです。
だからこそ、アンマにとっては、特別な寺院やテンプルを立てる必要はありません。
この全世界が、アンマにとっては、美しい寺院となっています。
そして、この世界と言う寺院のご本尊様は、人類であり、生類だということになります。
世界には2種類の貧困があり、一つは衣食住の貧困で、もう一つは愛と思いやりの貧困です。
愛と思いやりの貧困に最初に目を向ける必要があります。
何故なら、心に愛と思いやりがあれば、衣食住の貧困にある人々を助けようとする筈だからです。
本当の愛を育てることが難しいのは、私たちはいつもわがままで自己中心だからです。
本当の愛のある所に利己心はありません。
本当の愛は無私の愛です。
自分を保ちながら、自分のマインドとエゴの手綱を握る主人でいるようにしましょう。
アンマと言うのは、利己心を持っていない偉大な魂です。
そう言う偉大な魂のことを、サルヴァ・ブータ・ヒテー・ラタと言いますが、そう言う存在は、生きとし生けるものの幸福を常に喜ぶ人で、そのような人には、終わりのない無条件の愛があふれています。
「愛する(doing)」ことと 「愛である(being)」ことの違いとは、
本質的ではない 本質的、存在そのもの
徐々に募ってくる感情 自然自発的
対象は限定される 対象は限定されない
自己中心的 無私無欲
期待を伴う 期待を伴わない
充足感を求める 充足感から来る
パッション(情熱)として表れる コンパッション(思いやり)として表れる
アンマのように、愛である存在にとっては、私とあなたと言う二元性はありません。
普通の愛の関係性においては、愛する人、愛される人、そして愛の3つのものがあります。
一方、本当の愛においては、愛する人と愛される人との区別はありません。
あるのは、ただ、純粋で、無条件の愛と言う体験そのものだけです。
マインドは、愛を育てるプロセスを邪魔するものです。
マインドが不必要な活動をしなくなるように、少しずつ学んでいきましょう。
アンマをお手本にして・・・・・
ダルシャンと言う行為は、アンマにとっては礼拝のようななものです。
アンマは、日本のマスコミから取材を受けた時に、人をハグするときに、どのような気持ちですかと聞かれたことがあるそうです。
アンマは、私は人を抱きしめる時に、自分の姿が鏡に映っているように感じますと言いました。
自分の姿が、その人の中に見えている、つまり、アンマにとって人と対するときに分離感がないということです。
普通の人にとっては、理解しにくいことかもしれませんが、人間同士の関係に分離感を感じない人だということです。
各自一人ひとりの中の神聖さに敬意を払っている訳です。
そう言う形でハグされるという体験をしてみたいという人は、来日イベントに参加してみると良いと思います。