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私は加害者

 

ラージャ・ヨーガに取り組んで、日々自分の身体に向かい合うようになると、首を回しては、ここの筋がこんなに突っ張っている、身体に触れては、こんなに塊ができてしまっている、切れるべきところが切れていないと思うようになります。

 

そんな時、こんな身体を抱えて生きなくちゃいけないから大変とつい言ってしまいがちなのですが、そうすると先生から、「そんな身体にしたのはあなた。被害者だと思っているけど、あなたは加害者なんだから、身体に謝らないとね」と言われます。

 

 

 

ごめんなさい。

確かに、こんな身体にしたのは私です。

 

○十年生きてきて、こんな身体にしてしまいましたとは思うのだけれど、この身体を引きずって歩くのは大変だなと思う部分もあります。

 

○十年かけてしたのだから、治していくのも並大抵ではないのですが、それでも、真面目に取り組めば、○十年掛けて間違った状態にしたものを、○年で改善していくことができるのも修行の凄いところみたいです。

 

確かに、手の指の曲がっていたのも、まだ小指の重症な曲がりは治らないけれども、他の指は最初の頃に比べて素直に伸びている様になってきています。

 

ちなみに、合掌した時に、小指がピタッと沿わない感じがするのは、身体の中心の前寄りの無力感と関わっている感触があります。

 

骨ですら、破骨細胞によって壊されて、骨芽細胞によって作られて、骨の細胞は入れ替わっているから、時間を掛ければ、骨の曲がりや歪みですら、治していくことができると言うのは、凄いことだと思います。

 

 

 

それよりも、意識を変えるのが難しい。

 

前のめりで、自分の意志でなんとかしていくんだと言う生き方をしてきたのを緩めていく方が難しい。

 

今の身体のありのままを見つめつつ、その身体に作用している自然の重力というものが作用できる身体の状態を探していく。

 

 

 

仏教を学んで、本当は私と言うものはないんだと、無常だから、変わらないものはなくて、すべてが変化していくんだと、

 

今の自分と思っているものを薄くしていく方が苦しまなくて済むんだと言うことも知りました。

 

そういう意識の微妙な変化の中で、やっと最近、頭の重さが素直に落ちている状態とそうでない状態の区別がつくようになってきました。

 

 

 

今の自分にできる正しいと思われる姿勢を保つためには、まだ切れるべきところが切れていないので、筋肉のサポートが必要なのですが、修証義のお唱えなどをして、その姿勢をしばらく保っていると、筋肉で一生懸命サポートをしなくても、素直に重力が落ちる状態に近付いていきます。

 

それが、頭で考えている自分よりも、身体の方が賢いと言うことなんだろうと思います。

 

 

 

ラージャ・ヨーガに出会うことなく、あのままの生きる姿勢で突っ走っていたら、今頃どうなっていたのだろうと思うと、身体と向かい合うことを知ることができたことに感謝の思いがしきり。

 

フルタイムの仕事を辞める直前、ストレスによる不眠でフラフラする状態で仕事をしていた頃がありましたが、長年身体ケアをお願いしていた方から、いつ脳出血など起こして倒れてもおかしくない首の状態だと思っていたと、退職した後から言われましたが、倒れずに済んで良かったと本当に思います。

 

 

 

スピリチュアルなことに縁ができて、世俗の人生の速度を緩めて生き始めている人に、身体からも取り組むと良いよと本当に思います。

 

そう言うものに出会えるための最低の縁と徳があったことに感謝をしながら、今の自分にできることを地道にしていきたいと思うこの頃です。

 

変わっていくことって素敵!! 

 

今の自分を握りしめないで生きるのも良いかなと思っています。